日本画家 ・手塚雄二氏 × 小泉晋弥名誉教授が語った岡倉天心&平山郁夫
―五浦美術文化研究所「観月会2025講演会」

日本画家 ・手塚雄二氏 × 小泉晋弥名誉教授が語った岡倉天心&平山郁夫―五浦美術文化研究所「観月会2025講演会」

 茨城大学五浦美術文化研究所は、621日(土)、茨城県天心記念五浦美術館で、「観月会2025講演会」を開催しました。日本美術院同人であり福井県立美術館特別館長の手塚雄二氏と、茨城県天心記念五浦美術館長で茨城大学名誉教授の小泉晋弥氏が、「日本美術院の系譜-五浦で岡倉天心を語る-」をテーマに対談。手塚氏の師である平山郁夫氏(1930-2009)などを巡るエピソードなど、同い年でもある二人のトークで、会場は笑いの渦に包まれました。

手塚 雄二/てづかゆうじ

1953年神奈川県生まれ。東京藝術大学大学院美術研究科修了。2019年度まで東京藝術大学教授。東京藝術大学名誉教授。日本美術院同人・業務執行理事。福井県立美術館(Fukui Fine Arts Museum)特別館長。東京都美術館運営委員。台東区藝術文化財団理事。

小泉 晋弥/こいずみしんや

1953年福島県生まれ。東京藝術大学大学院美術研究科修了。2019年度まで茨城大学教育学部教授。2022年より茨城県天心記念五浦美術館長。茨城大学名誉教授。美術評論家連盟会員。美術史学会会員。文化資源学会会員。茨城地方史研究会員。

30代で日本美術の血脉図を描いた平山郁夫の根性

小泉「五浦美術文化研究所所蔵の、平山郁夫先生の《日本美術院血脉図》があります。この絵で平山先生は白い服を着た岡倉天心を描いてます。天心が実際に着ていた東京美術学校の教員服は海老茶色ですから、それを白い服にしたというのは、平山先生が天心を神のように描きたかったということではないでしょうか。平山先生の一番弟子とも言われる手塚先生に、平山先生が岡倉天心をどう捉えていたかということをまずは伺いたいです」

平山郁夫《日本美術院血脈図血脉図》1965年(茨城大学五浦美術文化研究所所蔵)

手塚「平山先生がこの絵を院展に発表したのは30代のとき、同人になられてまだ早い段階なんですよ。平山先生の先生である前田青邨がいて、その先生の横山大観がいて、そして天心が描かれている。この血脉図を同人になりたてのときに描くという根性は半端じゃないですよね。我こそが院展を支えていくんだと思っているんですよ(笑)。まさか平山先生は自分も岡倉天心のようになりたいと思っていたんでしょうかね」

小泉「私はそう思っていたと見ています」

手塚「そうですかぁ?大谷翔平が自分の夢を紙に書いて叶えたように、平山先生も東京藝大の助教授のときからそのうち教授になって学長になって…なんて、当時から考えていたんですかね。そんなことないと思うけどなあ……。でも実際に学長になっちゃった」

小泉「私はあったと思いますよ、それぐらいの自負心が。私、この絵を毎年のように見ながら平山先生本人がどこにいるかずっと探しているんですけど、未だにわからないんですよ」

手塚「描きますか?自分を。ラファエロみたいに?」

小泉「描いている気がするんですよね」

手塚「それは聞いたことないですね。平山先生がここに自分自身を描いていたらすごい」

小泉「岡倉天心という人は、〇歳のときにこれをやるんだという形で人生設計ノートを書いています。『文部大臣になる』とまで書いてある。東京帝国大学に入った15~16歳のときに彼は人生設計終わってるんです。そういう天心を目指しているんだから、平山先生は自身を描いていてもおかしくないですよ」

天心の批評と未完成性

手塚「岡倉天心先生は、横山大観とか菱田春草とかに、家族を連れてここ(五浦)で暮らしなさい、ここで絵を描きなさいと言った。絵描きからしたらたまったもんじゃないですが(笑)。ここで天心はどういう指導をしたのでしょうか」

小泉「当時日本美術院で『日本美術』という雑誌を出していて、互評会の速記録が残っています。そこで画家同士は名前を呼捨てで呼び合っているのに、天心は全員を「さん」付けにする。言葉遣いも丁寧で。全員に平等に接しているんです。大観はそれを傍で見ていたから、院展でも『同人』として平等に扱うということをしてきたのではないか。
 そして人の絵をあまり否定しない。ここが良かった、ということを言う。五浦に来ることになった4人の画家たちが当時のエピソードを語っていて、大観が一番不満を言っているんですね。自分が描いた下絵を全部積んでタワーにして持っていくと、天心が一番上のものだけ見て『それがいい』と言って返してくる。でも下村観山には手取り足取り指導する。しかし、今の時代から振り返ると、下村観山の場合はいっぱい言わないと絵がまとまらないんですね。一方で大観は規格外だから、好きにやらせておけばいい。天心は一人一人の画家の力を伸ばすためにはどうしたらいいか、相手に合わせて言葉を変えていたんだろうな、と」

手塚「それは大観の嫉妬ですよね。でもそれは天心が大観を一番に考えていたということでしょうね」

小泉「私もそう思います。
 菱田春草に対する態度なんかも、なるほどなと思いますよ。春草が若くして亡くなった後、天心は、春草の魅力は未熟だったところ、完成していないところだったと言っている。完成していない画家とはどういうことなんだろうと思っていたのですが、さきほど楽屋で手塚先生と話していて気付きました。画家には細かい批評をしても仕方がなくて、具体的に欠点やいいところを言うより、抽象的な言葉でその絵の感想を言う方が、受け取った人が新しい自分の絵のイメージを浮かばせる方がヒントになるんですね。
 たとえば春草の《落葉》という絵。パートは完璧に完成しているんだけど、絵の前に立ったときにどこを見たらいいかわからない。モチーフは落葉だけど絵のテーマがわからない。テーマは見る人が作ってよ、という絵なんですよね。見る人が完成するように、未完成の状態で置いてある。
 岡倉天心の批評の仕方もそれに似ているんじゃないでしょうか。ぼんやりと、この絵はこういうことだよねと言うと、聞いた人は自分で考えて作り上げないといけない。それが天心の画家に対するスタンスだったんじゃないでしょうか」

背中で語る平山郁夫の雰囲気と天心

手塚「ものすごく勉強になりますよね。絵の中の物事をわかりやすく説明したところで、作家の心には響かない。天心の言葉は漢詩のように美しいわけですよね。美しさをもって絵の奥の話をする。そういうことをされた画家の側は、なんとなくわかったという気になる。わからなくても、わかったというのが、心が通ずるということで、そうやって人の心の中に染み入っていくのが天心先生の指導だったと思うんですよ。
 平山先生は、研究会で山を描いている学生がいると、後ろにやってきて『山だね』と言う。花を描いている学生に『花だね』と言う。何を言っているかわからない(笑)。大切なのは雰囲気というんでしょうか。
 それから学生が卒業して院展に出品するようになるときに、下図を先生に見せますね。すると、『んーー……おやんなさい』と言うんです。『おやんなさい』と『んーー……おやんなさい』は偉い違いなんです。『んー―………』はやり直せという意味。言葉の雰囲気ですよね。
 後に私が賞を取ったときに、平山先生が藝大に来られて、私の絵の途中を見てもらったんです。指導してもらえると思うじゃないですか。それが、先生がすっと入ってきて、『君ね、これ、横は何センチだ?』って言うんですよ。院展の規程どおりだから〇〇センチですと答えると、『僕はね、これよりも大きい絵を描いてんだ。じゃ、そういうことだから』といって出て行っちゃう(笑)。そのときに『やった!』と思いましたよ。これは褒めているんだと。絵の内容じゃなくて、僕は君のより大きいのを描いてるんだぞって、それは人間と人間との関係の話でしょう。間合いを描く側が理解するような修行をしてきたんです。どう思いますか?」

小泉「天心先生と同じだと思いますね」

手塚「え?同じですか!?美しい言葉と同じですか?」

小泉「言葉にまとわりつく空気とかニュアンスがあって、その場にいないと天心の言葉はわからないんですよ。絶対そうです。天心は英語をネイティブと同じレベルで話せたのに、インドで若者たちに話をしたとき、ポツリポツリと話していたという証言が残っています。『んーー……おやんなさい』と同じですよ」

手塚「自分も教員になるときに、平山先生に、絵描きが絵描きにどういうふうに絵を教えればいいか聞いたんですよ。そしたら、『君ね、絵は教えちゃだめなんですよ。作家の背中を見せなさい。いい仕事をしていれば、絵が人を育てる。余計なことを言わないで背中を見せろ』と」

小泉「え!?それは天心が東京美術学校で髙村光雲に言った言葉と一緒ですよ。光雲は武士だから学校でどう教えればいいのかわからない。それに対して天心は『作っていればいいんですよ。背中を見せればいい』と。平山先生はそれを知っていたのでしょうね」

五浦美術文化研究所の70年と平山郁夫

小泉「茨城大学の教員として五浦美術文化研究所・六角堂の運営に関わっていたのですが、かつて『岡倉天心と五浦』という本を出したんですね。大学は今も昔もお金がないので、当時平山郁夫先生に相談したら、ポケットマネーで2000万円を出してくださった。私は金額は示さなかったんですよ。あとで見たら、2000万円だったんです。
 本の奥付には「五浦美術文化研究所40周年記念」と書いてあります。今年が70周年ですから30年前です。その後この天心記念五浦美術館ができることになり、平山先生が委員長を務めて、初めて院展が開かれた。そのオープンの場で先生に本を渡しました。
 本を1冊つくっても費用は50万円ぐらいですから、平山先生からいただいたお金はなかなか使いきらなかったのですが、今年か来年でようやく使いきります。私はもともと天心の研究はしていなかったので、最初は平櫛田中のことを書いてごまかしたんです(笑)。でも最後に天心のことをちゃんと書くことができた。岡倉天心と平山先生のおかげで70周年を迎えられたんです。ありがとうございます」

手塚「そういう話は初めて聞きましたね。先生が亡くなる半年前ぐらいに電話があったんです。『君、やってるかい』って。それで『一生懸命やってます』と答えたら、『君ね、まだまだだよ』って。それで先生は、『僕は君ぐらいの年にこういうことをした』と言ったことを話したのですが、どこに寄附をしたといった話は一切なかったですよ」

小泉「やっぱり平山先生は20世紀の天心を目指していたんじゃないかと、私は薄々思っています」

朦朧体と天心に見る弱さと日本文化

小泉「もうひとつ聞かせてください。今回の院展(再興第109回院展 茨城五浦展)の最初に、手塚さんの《霞野》という作品が置いてある。これ、朦朧体ですよね、って聞いたら、『ああ、そうだ』って…」

手塚雄二《霞野》

手塚「この話の流れでそれを言ったら、私がすごい嫌な奴みたい(笑)」

小泉「最近、松岡正剛の『フラジャイル 弱さからの出発』を読み直していて、日本文化の根本は弱さ、あるいは壊れやすさ、何かと何かの間、すなわち『あわい』にあって、強さが出発点じゃないんだということを改めて認識しました。油絵みたいに完成した強さではなくて、何かと何かのちょうど中間にあり、どちらの構成も受け入れられる柔軟さ。それがヨーロッパからは弱さに見えるわけで、余白も『何もない』としか捉えられないのですが、それが日本の美学にとってはいかに大事か。
 天心も、いろいろ言っていますけど弱い人なんですよ。天心がインドのプリヤンバダ・デーヴィーに宛てた手紙に、私はあなたの膝に顔をうずめて泣きたいと書いてある。私は女性の前で泣く男というのは、明治の日本に北村透谷と天心の2人しかいないと思っていますが、弱さを持っているのが天心の奥深さなんです。
 朦朧体というのも、線を捨てている。そこにモノがあるよと線で示すと強くなっちゃう。手塚先生の絵を見ると、雀が飛んでいて空間があるんだけど、これが何を描いてるんだろうと思うと、春草の《落葉》と一緒でわからない。朦朧体から落葉につながっていく春草の未完成性と同じ匂いを、先生の《霞野》の作品に感じてしまいました。その感覚が正しいかどうかは、みなさんぜひ作品を見てください」

手塚「みなさんわかりました(笑)?絵は、よく見て、感じてもらうということなんです。
 朦朧体って、線じゃないからこそ、ものすごく形にこだわってるんですよ。煙でも大気でも、その形が美しくないと絵として成立しない。極限まで形を突き詰めていった上での朦朧体なんですよ。そう思って描いたものなので、この形はおかしいよと思ったら、みなさんぜひ美術館に投書してください(笑)」

「再興第109回院展 茨城五浦展」は
茨城県天心記念五浦美術館で
7月21日(月・祝)まで開催中!

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