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茨大で歴史学を学んだ学芸員が企画した「那珂川ヒストリー」展@水戸市立博物館
―2019年台風災害のレスキュー史料の初公開も

 「水戸」という地域はその名のとおり江戸時代の水運の要所として、水戸城の北側を流れる那珂川の恵みとともに発展してきた地域です。一方で水害にも幾度も見舞われてきました。
 水戸市立博物館では現在、「那珂川ヒストリー ー水と共に生きた人々ー」と題した特別展が開催されています(2023年3月12日まで)。生業・流通・災害という3つの側面から地域と那珂川の歴史に迫るこの展覧会を企画した藤井達也学芸員は、茨城大学大学院人文科学研究科(現・人文社会科学研究科)の修了生です。今回の展示では学生時代の経験やつながりも活かされています。

環境、資源保全への意識に歴史あり

 那珂川は栃木県の那須連山の茶臼岳を水源とし、常陸大宮市や城里町、水戸市などを通って涸沼川と合流し、太平洋へとつながる川です。藤井さんによれば、「国内の他の大きな河川の中でも、昔ながらの流路、景観が保たれている川」とのこと。
 水戸(=水渡)はその那珂川の渡し場に形成された城下町。江戸時代になって産業、流通が発展すると、那珂川は江戸と各地をつなぐ水運の幹線として、流域にさまざまな恵みをもたらしてきました。

 展示会場を訪れてまず目に入るのは、古文書のような歴史資料ではなく、鮭(シロザケ)の剥製標本です。

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 那珂川では産卵のため遡上する鮭を捕まえる鮭漁がさかんでした。かつては、杭や網で川幅を防いで鮭を捕らえる「留漁(とめりょう)」という特徴的な漁が行われていたそうですが、江戸時代末期に水戸藩主・徳川斉昭がそれを中止させます。藤井さん曰く、「鮭が獲れすぎてしまったので、資源の保護のためにやめさせたようです」。この時代にそうした環境や生物資源の保全への意識があったことに驚きますが、実際には、木の伐採の抑制なども含め、資源保全の観点に立った取り組みの歴史は結構古いようです。

水とともに生きる人びとの暮らしと世界観

 会場には漁業で使用された珍しい道具や、江戸時代の廻船業や舟で使われていた旗や台帳などが並べられており、那珂川とともに生きた当時の人びとの生業の一端に触れることができます。特に興味深いのが、農家や商家で作られたと見られる絵図の数々です。
 現代の常陸大宮の裕福な家で作られたと考えられる「水戸街道絵図」もそのひとつ。その家があった野口という地域を中心にして、江戸まで伸びる水路や霞ケ浦、北浦、涸沼などの湖沼と街道がアメーバのような形状で描かれた図で、その中に荷物を上げ下ろしする河岸や問屋の情報が文字で記載されています。「当時の農民の人たちの知識と世界観の広さをうかがえる興味深い史料です」と藤井さんは語ります。

 強い封建制というイメージの強い江戸時代にあって、実は小さな各村やそこに住む農民、商人などの民衆も、居住域を超えた広い地域に関する知識をもっており、それなりに自律性を有していたことが、今回展示された他の資料からも感じられました。
 今回の特別展の目玉のひとつでもあり、茨城県内では2度目の実物展示である「常陸名所図屏風」もそういう資料といえます。
 左右6面ずつの屏風に、今の茨城県の海岸線に沿った形で水辺の人びとの暮らしや経済と、寺院などの名所がパノラマ状に描かれた色彩豊かな屏風画は、17世紀後半のものと推定されます。約10年前に岩手県で発見され、当時は茨城大学の高橋修教授などもその調査に関わりました。人びとの風俗も細かく描写されている一方、水戸の姿が描かれていないことから、この屏風絵の制作には水戸藩は関わっておらず、廻船問屋などの有力な商家などの要請で作られたものと考えられています。この見事な屏風絵の存在自体が、那珂川とともに生きた民衆の豊かさを伝えるものといえるでしょう。

DSC_8252特別展の目玉のひとつ「常陸名所図屏風」(個人蔵、奥州市牛の博物館寄託)

水害の記録と継承

 しかし、那珂川の恩恵を受ける地域は、同時に水害のリスクも抱える地域であることも意味します。水戸もしばしば那珂川の増水による大きな被害を受けました。特に城下の東側、低地となっている下町地域は何度も浸水被害を受けています。

 江戸時代の水戸の水害の記録は、いくつかの文書に残されています。
 たとえば水戸藩士が記した「享保日記」という史料には、1723(享保8)年や1728(享保13)年の洪水被害の様子が記録されています。特に1723年の洪水は水戸藩始まって以来の大規模なものとされ、「卯年ノ水」として、その後の洪水被害のたびに基準として参照されることになります。
 さらにその「卯年ノ水」も経験した吉川常元という水戸藩士が、1786(天明6)年の水害の記録を克明に残しています(「天明六年午七月十六日洪水記」)。ここには、吉川自身が避難した家の近くでも増水し、戸棚と長持を土台として、その上に戸板3枚、畳3枚を乗せた高床を2セット構築し、その上に17人が避難したといった、詳細な記録も記されています。「この文書自体が、洪水や避難の経験、教訓を後世に伝えるものとして書かれたものなんです」と藤井さん。「中規模、大規模な洪水が頻発するようになる中で、存命中に複数回水害を経験する人も増え、災害時の対応について記録し、継承しようという意識も高まりました。それが実際に住民たちの知識や行動にもつながって、被害の軽減に役立っています」。

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 水戸城下の低地である下町が浸水被害に見舞われても、住人たちが上町へと避難することは容易ではありませんでした。なぜなら、その中間に水戸城があるからです。実際、「卯年ノ水」でも、多くの人が低地である下町で避難場所を探さなければなりませんでした。
 このような状況を水戸藩もただ見過ごしていたわけではありません。その後の1786年の水害のときは、水戸藩が過去の経験を踏まえ、避難路として水戸城を開放し、被害を最小限に抑えようとしたということも吉川の記録には書かれています。
 こうした史料からは、江戸時代においても、現代と同様に地域防災・減災に対する強い意識をもち、柔軟な対策を講じていたことがわかります。「防災という観点で江戸時代の記録から現代の私たちが学べることは、思っていた以上に多いんだなと実感しています」(藤井さん)。

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史料レスキューというバトン

 明治時代に入ってからも、水戸は何度も水害に見舞われることになり、その都度、川の付け替えや堤防の構築などの治水事業も行われていきます。
 水戸での水害として記憶に新しいのが、2019(令和元)年の台風19号によるものです。このときは水戸キャンパスに近い地区も大きな被害を受けました。
 実はこうした災害をきっかけにして貴重な歴史史料が見つかることもあります。たとえば浸水した自宅の倉庫を整理していたら大きな桐箱が見つかって、それを開けると古文書がたくさん出てきた......といったことがあるのです。一方、避難生活や家屋の整理、修繕の過程で、こうした貴重な史料が廃棄されてしまうケースも多くあります。
 このような状況から歴史史料を「レスキュー」するボランティア活動が、全国各地で展開されています。茨城県では「茨城史料ネット(茨城文化財・歴史資料救済・保全ネットワーク)」という、茨城大学の教員・学生を母体とし、地域住民の方なども参加している団体などが、公的機関とも連携しながら救済活動に取り組んでいます。

台風19号災害の際の史料レスキューの活動の様子 左手前は高橋教授(茨城史料ネット提供)台風19号災害の際の史料レスキューの活動の様子 左手前は高橋修教授(茨城史料ネット提供)

 被災地で「レスキュー」された史料は、泥を落としたり、水濡れや損傷を処置した上で整理、精査し、基本的には持ち主へ戻します。
 今回の展覧会では、2019年の台風19号の水害に際して見つかった個人保有の古文書の数々も初めて公開されました。江戸時代には村の役人(組頭)を務めた家で、文書の中には、治水事業のための人足の手配が記録されているものなどもありました。「藩がどのように指示をし、それに対してそれぞれの村がどのように対応したかということがわかる貴重な史料です」と藤井さんは解説します。

 実は藤井さん自身も、茨城大学大学院人文科学研究科(当時)の学生として歴史学を学んでいた頃から、「茨城史料ネット」の活動に参加してきました。その取り組みを通じて、地域の方たちから預かった史料を大切に整理し、調査して、地域に還元をするという活動に強い使命感と誇りを抱くようになったと言います。
 今回の関連資料の展示においては、「茨城史料ネット」に関わっている茨大生たちにも展示作業に関わってもらったそう。「自分も史料ネットの活動にたくさん学ばせていただいたので、後輩たちにもそれを返したいと思って」と藤井さん。一連の展示資料の中には、同じく2019年の台風19号水害で被災した水戸市上国井町の赤沼山薬師堂の古い仏具などもあり、川の恵みと脅威とともに生きる人びとの信仰の姿にも触れることができます。

 水戸市立博物館の特別展「那珂川ヒストリー ―水と共に生きた人々―」は3月12日まで。月曜休館。入場料は一般200円。解説も豊富な展覧会図録も1500円で販売されています。

(取材・構成:茨城大学広報室)