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【観想】日本人の公衆衛生意識と学校教育
―教育学部・瀧澤利行教授

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 茨城大学の研究者はCOVID-19で変化した世界をどう見ているのかを、率直な対話を通じてシェアする「観想―WITHコロナの世界」。第2回は公衆衛生学・健康思想史が専門の教育学部・瀧澤利行教授と、日本人の公衆衛生意識と学校教育のかかわりについて話をします。(聞き手:茨城大学広報室・山崎一希)

外的な要因で行動を抑制する国民性

山崎 日本は新型コロナウイルスの感染者数や死者数が欧米などの他国と比べて少なく抑えられているように見えます。今回、瀧澤先生とお話ししたいのは、そのことに日本の学校教育がどう関係しているか、ということです。

瀧澤 日本の感染者数が少ないことについては、PCRの検査数が少ないという指摘もありますが、山中伸弥先生(京都大教授)が「ファクターX」と呼んでいる、日本人の何ごとにつけ慎重な行動をとるという資質なのか遺伝なのか、入浴などの日本独自の生活習慣なのか、そういうものがあるということですよね。まだ確定的なことはわかりません。
 日本人の伝統的な衛生意識ということも言われますが、たとえば100年前のスペイン風邪ではたくさんの被害を出していますし、生ものを食べる食文化の事情もあって、消化器系の感染症はなかなか減らない。だから、結局は感染症全般に強いということではなくて、ケースごとに何らかの要因があるということでしょう。
 今回のコロナで関しては、「辛い」と言いながらも社会の自粛要請にはかなりの数の国民が敏感に対応するという国民性が、結果的に感染症を抑制した可能性はありますよね。外的な要因によって自分たちの行動を抑制する国民性は、こういうときは決してマイナスではないということです。ただ、それで良いのかどうかは別問題ですけどね。

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山崎 自分たちで校舎の掃除をするとか、保健室や養護教諭の仕組み、手洗い、うがいの習慣づけという日本の学校における伝統的な取り組みが、日本人の公衆衛生意識につながっていて、それが感染をある程度抑えているということはないでしょうか。

瀧澤 小中学校では、できるだけ子どもたちを日常性から遠ざけないように学ばせていく、という意識がやはり強いですよね。もちろんみんなマスクは着用していますし、訪問者も検温や消毒などが求められますが。手洗い、うがい、歯磨きをしっかりやることが、自分ができるだけきれいなところで過ごすという習慣づけにはつながっているといえるでしょう。ただ、そうした対策が本当に必要なのか、今何をしなければいけないのか、ということを自分で考える力になっているかは、日本の学校教育が問われる点ですね。
 学校清掃についていえば、遡ると鎌倉時代の道元(12001253)の思想に代表されるような禅宗の文化にたどり着くと言われています。禅寺の修行ですよね。朝早く起床してお堂を掃除することが精進につながるという。だから日本の学校における清掃活動を、鍛錬の場として捉える見方が、今でも残っていますよね。あるいはかつては、教室にエアコンをつけるべきでない、という論調があって、それも「暑い中で耐えてがんばるから勉強が身につくのだ」という、科学的根拠のない精神主義だったわけです。そういう中で、ある種の統制のもとでの服従が経験値として身についていることが、感染症や災害のときにいい方向につながることも確かにあるのでしょう。今、どこにでも消毒液と検温器が置いてありますけど、そもそもあれを裸の状態で置いておいて誰も盗まない国なんて珍しいですよね。

「取り締まり」としての公衆衛生

山崎 なるほど。そうすると、学校教育が感染症抑制に何らかつながっているとすれば、それは公衆衛生意識というより、集団圧力、同調圧力の内面化によるものということですね。そうすると、そもそも公衆衛生意識とは何なんでしょうか。

瀧澤 公衆衛生というのはもともとイギリスが発祥で、それがヨーロッパに広まって明治時代に日本の輸入されたのですが、他の学問同様、まるごとは引き継いでいないんですよ。公衆衛生の第一は社会防衛、社会を守るということ。そもそもヨーロッパで公衆衛生が広がった背景には、絶対王政が終わり、個々の人間の命を大事にしようというヒューマニズムがあったわけです。感染症という人間に対する理不尽を防ぐために、あそこのポンプの水を飲んだ人がコレラになっている、ということを見つけたら、それを停めてでも命を守る。それが、全体の福祉につながるというわけですね。そうして例外なく対応していくためにルールを作るわけです。
 しかし、いくらルールや制度をつくっても、個人がそのルールに基づいて行動してくれなければ成立しない。だから最後は個人の行動の修正が必要、ということで教育に結びついていきます。

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山崎 それが明治期に日本に入ってきたのですね。

瀧澤 日本もそれを採り入れて、教育が必要ということははっきりと意識し、ある程度のところまでは欧米の公衆衛生を参考にしたのですが、ある時点で日本人の発想が加わった。つまり、これは取り締まりさえしっかりやれば、面倒なことをすっ飛ばして解決できるのではないか、という話になったんですね。それで日本の公衆衛生は、地方行政においては警察が担うことになった。警察部衛生課です。個人の意識による自発的な行動ではなく、物理的な強制力で公衆衛生を運営する。そうすると、取り締まられるからやらない、取り締まられなければやってもいい、というふうに、外的な強制力の有無によって自分の行動を基準化するということが、ある時期から日本人の行動規範の中に入ってきたんです。

「自粛警察」を生み出すもの

山崎 公衆衛生と「取り締まり」的発想がそもそも結びついてしまっていた、ということですか。コロナ禍で問題になった「自粛警察」のようなものにつながっているように感じます。

瀧澤 日本は社会的なつながりへの依存性が高いといえます。「テレワークをやれ」といわれても、個人の意思だけではダメで、上司や会社が積極的にやろうと言ってくれないとなかなかできない。人のつながりを簡単に切ることができず、それで社会の枠組み、統制を自ら求めてしまう。コントロール、社会的統制が強くなるほど、その社会の機能が動くんだ、という前提なんですね。そうした社会通念から逸脱した行動をとるのが難しい。

山崎 日本の学校教育はそれを強化する方向に働いてしまうわけですね。その集団意識が感染症予防に有効として、それは副作用として必然的に「自粛警察」的なものを生み出さざるを得ないということでしょうか。

瀧澤 必然的かどうかというのは難しいですね。ただ、規範意識が強く、逸脱性がマイルドであるということは間違いないでしょう。それは同調圧力が強いということでもありますけど、他人に迷惑をかける、人に後ろ指を指されるのが嫌、というのもありますよね。私の妻の母親が、以前ひったくりにあってカバンや財布を盗まれたんですが、カバンの中に入っていた葬式の香典だけは盗まれなかった、ということがあるんです。

山崎 ある種の美意識のようなものでしょうか。

瀧澤 あるいは矜持とでもいいますか、そういう側面があって、それが日本人の行動基準を作っている。感染症にかかって「ごめんね」と言う。自分の病んだことよりも、人に影響を与えてしまうことにネガティブな感情をもつ、それが大きな特徴ですよね。「自粛警察」というのは、迷惑をかけないという倫理を人に強要してしまう。人に後ろ指を指されたら、相当肝の強い人でも耐えきれないですよね。

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山崎 「迷惑をかけない」という倫理。以前、引きこもりの息子を親が殺めてしまった事件で、そういう事態になる前に周囲にヘルプを求められなかった背景として、「周りに迷惑をかけたくない」という意識があった、ということも指摘されていました。

瀧澤 本来であれば、適切な支援機関や医療機関などに相談してその子の安全も自分の安全も確保しなければいけないのに、「他人様に迷惑をかけちゃいけない」という意識が働いてしまう。
 学校の先生の子どもたちへの注意の与え方にも、そういうところがありますよね。その子がどうとか、教師自身がどうとかではなく、「みんなが迷惑しているよ」と言って行動の修正を促す。基準は集団で、そこに不利益をもたらすという視点で注意をするんですよね。その蓄積が自粛警察につながっている面はあると思います。

科学的リテラシーと規範意識の両立

山崎 別の観点になりますが、このコロナ禍で、改めて「ヘルスリテラシー教育」の重要性ということも言われています。健康科学、エビデンスに対する弱さが、間違った対策や過剰な反応を引き寄せているという問題意識ですよね。これについてはどう思いますか。

瀧澤 ヘルスリテラシーというのはいろいろあるのですが、日本の場合は、どういう情報選択するかというときに、情報の真偽を自分で吟味しながら、まさかそんなことがないよねという判断ができるという、批判的な思考ができるかということですよね。一時期26℃のお湯で新型コロナウイルスが死滅するというデマが広がりましたけど、普通26℃で死滅するなら人の体内で生きていけるわけがないわけで、ちょっと考えればデマだとわかるはずです。
 これもさきほどの話と同じで、学校での知識の身につけさせ方が取り締まり的だったということだと思います。すぐに正解を求めてしまい、正解が与えられると安心してしまう。重要なのは、「それって本当に正解なの?」「問題設定が間違っているかもしれない」というメタ認知なんです。
 しかし、それを育てるというのは時間がかかるんですよ。50分や90分の授業ではなかなかできない。時間をかけて議論する場があって初めて違う考え方とかが出てくる。何十年もかけて身につくものであって、コンパクトに知識を与える今の学校のシステムでは難しい面もあります。江戸時代の塾や内弟子、近代の書生のようなシステムのある種の意義をどのように考えるか興味深い課題だと思います。

山崎 ここまでの話を踏まえると、「迷惑をかけちゃいけない」という倫理規範と、クリティカルな思考は、一方をとると他方が犠牲になるようなトレードオフのようにも見えてしまいますが、実際は両者の性質は違うもので、両立し得るものですよね。

瀧澤 バランスの問題かも知れません。COVID-19の場合も今までは倫理規範でなんとか我慢してやってこられたけれど、そろそろ限界のようにも思います。
 実際には、強権的に取り締まっても、人々の自発性に任せても、感染症対策の効果としてはあまり大きな差がないのではないかと私は見ています。そうすると、どうやって経済活動をしていくかということになる。その点を押さえた上で、本学もそうですが、学校では正常性バイアスに陥ることなく、何ができるかできないかを大胆に仕分け、整理していくことが必要でしょう。

瀧澤利行(たきざわ・としゆき)教育学部教授

1995年に茨城大学に着任。養護教諭養成課程を担当。研究分野は公衆衛生学、健康思想史、健康文化論で、近年は社会と科学の相関性からみた再生医療教育のあり方について、地域の学校等とも協働しながら実践研究を進めている。著書に『わかる公衆衛生学 たのしい公衆衛生学』(弘文堂、2020年)など。takizawa5.jpg