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日立・舟戸山古墳は東日本最大の方墳? 
測量によって浮かび上がった本来の形と中央とのつながり

 茨城大学人文社会科学野の田中裕教授と日立市は、茨城県日立市久慈町の舟戸山古墳が、一辺60メートル以上の方墳である可能性が高いことを明らかにしました。古墳時代前期後半から中期前半(4世紀後半から5世紀前半)に造られた方墳としては東日本最大とみられ、全国でも第7位の規模です。大型方墳が奈良県や大阪府に集中していることから、古代の日立地域と近畿地方を中心とする政治勢力との強いつながりをうかがわせる発見となりました。

日立市久慈町の舟戸山古墳
日立市久慈町の舟戸山古墳

測量で浮かび上がる本来の形

 舟戸山古墳は、現在の久慈漁港を見下ろす「離山」の頂上にあります。木々に覆われた私有地にあるため外から形を確認することは困難で、これまでは大型の円墳、または小さな前方部を持つ帆立貝形古墳と考えられてきました。築造から約1600年がたち、崩れやすい墳丘の角は丸みを帯びています。地上から見える裾は、円を描いているように見えていました。数年前に土地の管理上の理由から木々が伐採され、地元の研究者から「古墳がよく見えるようになった」と連絡を受けた田中教授は、日立市や土地所有者と調整し、2023年から学生たちと測量調査を始めました。

 田中教授も、当初から方墳を想定していたわけではありませんでした。「円墳は測量しても得られる情報が少ないのですが、大型円墳なら、大きさを確定するだけでも意味がある。私は、茨城県はことさら大型円墳が多い地域だと以前から指摘していたので、裏付ける資料にもなると考えました。『日立町史』に書かれていた前方部があるのかどうかも確認事項でした」。

 測量は墳頂部から始まりました。現地の地形を図面に写す際の基準となる杭を南北方向に打ち込み、等高線を描いていきます。「円墳だと思い込んで杭を打ったのですが、測り始めて、何かおかしいぞ、と」。図面には、想定していた円形とは異なり直線が現れました。さらに、杭を方墳の対角線上に打っていたことが分かり、図面を何枚もつなぎ合わせなければならず、作業は想定以上に複雑になりました。

 そして測量の結果、一辺60メートル以上、高さ約7メートルの二段構造の方墳であることが明らかになりました。周溝を含めると、全体は約101メートルに達します。

舟戸山古墳の測量図
舟戸山古墳の測量図

 大型方墳には、古墳時代前期から中期にかけてのものと、終末期(飛鳥時代)のものがあります。終末期には千葉県の龍角寺岩屋古墳(一辺78mメートル)など、前方後円墳が消滅するかわりに新たな大型方墳が現れ、意味が変化します。正確に歴史を読み解くには、時期を絞り込む必要がありました。そこで、田中教授の高校時代の先輩で東海大学元教授・北條芳隆氏の協力のもと、地中レーダー探査を実施したところ、墳頂部の比較的浅い場所に、複数の埋葬施設とみられる反応が確認されました。この結果から、埋葬施設が墳丘の深い位置に造られる古墳時代終末期の大型方墳である可能性は低いと判断しました。
 さらに墳頂部では、葬祭に使われたとみられる高坏の脚部が採集され、その形の特徴から、築造年代を古墳時代前期後半から中期前半に絞り込みました。古墳の頂上では、埋葬の前後に食べ物を供えるなどの葬祭が行われ、高坏はその際に使われたと考えられます。

中央とのつながりを示す「割に合わない」大型方墳

 舟戸山古墳は一辺60メートル以上。対角線では80メートルを超え、数字から受ける印象以上に大きな古墳です。方墳は築造に多くの土と労力を要しますが、墳形の序列では前方後円墳や円墳より下位に位置付けられていました。「方墳は、労力の割に報われない墳形なんです」。

 この時期の大型方墳は、全国でも極めて限られます。一辺50メートル前後まで含めても、知られているのは20基程度。舟戸山古墳より大きい6基は、すべて近畿地方にあり、特に奈良県の桝山古墳や、大阪府の古市古墳群などに集中しています。田中教授は「地方には、手間のかかる大型方墳を造ろうとするモチベーションも伝統もありません。奈良や大阪との直接的な関係がなければ、『大型方墳を造る』という発想自体が生まれにくい」と指摘します。

田中教授
田中教授

 中央側から墳形を指定されたのか、中央の官僚的な役割を担う集団が地域に来ていたのか、実務を担う人々が往来していたのか。単に近畿地方の古墳を真似たのではなく、墳形や葬祭の方法を共有できるほどの強い人的・政治的ネットワークがあった可能性があります。
 田中教授は、古墳の意味を考える際、葬られた「被葬者」だけでなく、墳形を選び、築造や葬祭を主導した人物や集団である「造営主」に注目します。被葬者と造営主は重なる場合もありますが、最終的に葬祭を取り仕切るのは造営主であるためです。「造営主が、大型方墳を通じて、奈良・大阪とのネットワークを表現したと考えています」。

 舟戸山古墳の約十数キロ北西に位置する常陸太田市には、舟戸山古墳と同時期に、全長約88メートルの大型円墳・高山塚古墳も造られています。互いを直接見渡せる位置にあり、両者は意識し合っていたと考えられます。「地域の最高位にある人物だけでなく、それに次ぐ2番手、3番手の人物や集団にまで、近畿地方と共通する墳形の序列が及んでいたとすれば、古代の常陸と中央との関係は、トップ同士の結び付きだけではありません。地域社会のより細かな階層まで、政治的な秩序が組み込まれていたことになります」。

古墳は「信用を作り出す装置」

 舟戸山古墳が造られた場所にも、重要な意味があります。現在の久慈川は東へ流れて太平洋に注いでいますが、かつては現在の東海村付近から北へ曲がり、舟戸山の麓を河口としていました。舟戸山古墳は、海と川、さらに陸路が交わる場所を見下ろしていたことになります。

 古墳時代中期の初めには、日本列島に馬が導入され、水上交通と陸上交通を組み合わせた往来が活発になったと田中教授は考えています。船から荷物を下ろして陸路へ移すことも、そのまま川を使って内陸へ運ぶこともできる河口は、新しい交通の結節点でした。そこに築かれた巨大方墳は、地域の権力者の墓であると同時に、海や川を行き交う人々に、地域を治める集団の存在と、近畿地方とのつながりを示すものでした。
さらに田中教授は、後の陸奥国にあたる現在の福島県以北に接する常陸北部は、中央から「周縁」と位置付けられる一方、大きな利権を生み出す地域でもあったとみています。舟戸山古墳の造営主は、近畿地方とのつながりを示すことで自らの権威を高めることができました。一方、近畿側にとっても、この地が「自分たちの関与する地域」であることを示す意味があったと考えられます。

 ただ、田中教授は、古墳を単に権力を誇示するための建造物とは捉えていません。舟戸山古墳を目指せば港に着く。その意味では、港の位置を知らせる灯台のような目印でもありました。「古墳は、ここに来ればしかるべき相手がいて安心して取引ができると示す看板、つまり、信用を作り出す装置だったのです」。

舟戸山古墳から望む久慈浜
舟戸山古墳から望む久慈浜

考古学は総合科学

 舟戸山古墳の新たな姿は、さまざまな手法により明らかになりました。
 学生たちも参加した平板測量によって墳丘の形を描き、地中レーダーで得た内部の反応と採集された土器から年代を絞り込みました。得られた結果を全国の古墳の形や規模、分布と比較し、古代の政治や交通の中に位置付けることで、巨大方墳の意味が浮かび上がりました。

 現在の考古学では、発掘や土器の分析だけでなく、地中レーダーや測量、情報処理など、理工系の知識や技術も活用されています。機器によって得られたデータを考古学の知識と組み合わせることで、遺跡を壊さずに内部を調べたり、過去の人々の営みを読み解いたりすることができます。「考古学は総合科学としか言いようがありません」。

 今回の調査では、舟戸山古墳が方墳であることを最終的に確定したわけではありません。田中教授は今後、墳丘の角を発掘して形状を確認するとともに、地域の人々と相談しながら、古墳の保全とさらなる調査を進めたいと考えています。

研究者の情報

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