人文社会科学部の掛貝祐太准教授(財政学)による初の著書『財政民主主義の地平 スイスの自治・多様性・直接民主主義』。今年3月の刊行以来、国内外のメディアでも取り上げられています。夏の参議院選挙では、減税か給付かという論点の単純化や、財務省への不信感なども取り沙汰される中、財政民主主義をどのように考えればよいのでしょうか。政治学が専門の井上拓也教授・上田悠久准教授とともに同書について語りました。(人文社会科学部のコラム「人文社会科学部の書棚から」と広報・アウトリーチ支援室との共同企画)
第3章以降は、スイスの社会・政治について、合意を重んじる政治文化・制度の独自性を紹介した上で、いくつかの事例の分析から具体的な政治過程をあぶり出す。第4章では1990年代のバブル崩壊後の労働政策、失業保険改革の議事録を分析。続く第5章では、住民投票によってお金持ちほど優遇される「逆進」消費税が導入された経緯と、それを廃案に追い込んだマイノリティ政党の政治家の動きを紹介する。
スイスは特殊なのか
井上 スイスの事例は、知らないことが多かったので興味深く読みました。半直接民主主義ともいえる制度的な仕組みが分裂回避の手法として機能しているということですね。その上で、国民国家を成り立たせるために積極的に行われている理念的なことがあるのかを聞きたいです。「スイスとは!」という一体性を高めるイデオロギー的なもの、フィクションの装置があるのでしょうか。また、スイスは小さな政府としての側面ももちつつ、普遍主義的な施策をとる国家よりも政府への信頼性が高いが、他方で普遍主義の国々とは国家の正統性を支えるメカニズムが根本的に違うと書いていますね。そのメカニズムとは何なのでしょうか。
掛貝 国民統合のフィクションについてはあまり問題関心を抱いてこなかった視点です。むしろ、州ごとに言語も違うような分離した状態で、どうやって国家が保てるのかという点に関心がいきがちなので。それこそ国旗のようなモチーフは街なかに溢れています。象徴的だと思うのは、州の旗とスイスの国旗が2つ一緒に日常的に掲げられていることです。州のキャラクターは確かに強いのですが、スイス国民というアイデンティティは割と強いと感じます。そもそも、分裂と一体性というものが二律背反として扱われていないのかもしれない。4分の1は外国人ですし二重国籍も認めているので、分裂していることが一体性を損なうという前提ではないのかもしれませんね。
上田 内閣的なものが昔から4党の連立政権で運営されていて、閣僚ポストを議席数に関係なく一定割合で配分するという「魔法の公式」とか、おもしろいですよね。
掛貝 はい。制度的な一体性を高める要因は、その魔法の公式にせよ国民投票にせよ、あるいは国防もそうですが、いくらでも指摘できます。
上田 その視点で僕がこの本を読んで考えたのは、デモクラシーを運営していく上では、なんらかの一体性や同質性がないと難しいんじゃないかということです。独裁者が選挙を使って自分の権力を維持する「選挙独裁」というのが最近増えていて、それはつまり、選挙をやっているというだけでは民主主義にはならないわけです。それに国民が合意形成に価値を見出すことが難しくなっている。トランプの登場で分断社会といわれて、選挙で勝てば今後はノーサイド、みたいに言えなくなってきました。僕にはスイスは幸福で特殊な事例だと見えてしまいます。
掛貝 結果に対して納得する上で予め一体性が必要という見立てには、僕は賛成できません。納得できないことに次のフェーズで異議申し立てできるチャンスがあったりすることの方が重要なのではないかと。
上田 でも「議論して決めよう」とか、自分たちの思い通りに行かなくても「次、がんばろうね」とか、そういうコンセンサスとか、システムへの信頼はあるわけじゃない。
掛貝 どうですかね…。1970年代には州の分離も議論されていたので、システムが全く動かないものでもないですし、「魔法の公式」も何十年と続いてきたのは確かですが、やはり変わったりしますから。移民政策に対するバックラッシュも1970年代からあって、それはやはり分断の火種として燻っています。ただ、多様な人間がいることで国家の運営は難しくなるけれど、決して不可能ではないものとして、それはどうしたらいいかを知りたいというのが僕のモチベーションなんです。その意味でいうと、政治学の議論ではスイスの可能性があまりに検討されなさすぎています。人口規模でいえば同程度のスウェーデンなどは分析対象としてモデルを成していることを考えれば、人口規模という点だけでスイスを捨象してしまうのは、過小評価ではないでしょうか。
上田 それはそうだよね。
スイスの直接民主制を象徴するのが、多様な政策をめぐって日常的に行われる国民投票(レファレンダム)や署名を集めて憲法改正案を提案できる国民発議(イニシアティブ)だ。根源的な財政民主主義を模索するうえでなぜスイスを検討すべきなのか。最終章では各章の事例と財政民主主義の関係を改めて整理した上で、期待されることの多い熟議民主主義を批判的に検討しつつ、むしろ利害の対立や競争を重視する闘技民主主義の制度化の可能性などを展望する。
住民投票も「やってみなはれ」
―いろいろな仕組みが分裂回避につながっているということですが、それは結果論なのか、それとも分裂回避のために誰かが仕組みを必死に守ろうとしているのか、どちらなのでしょう?
掛貝 それは結果論だと思いますし、常に不安定な要因を抱えながら、変えるためのラディカルなものと、急激な変化を抑える仕組みの両方が機能している。本の中でも書きましたが、アクセルを踏みながらブレーキをかけるというバランスで国が現在へと至っているのではないでしょうか。
上田 政治文化の違いが政治を左右するという「政治文化論」で物事を語るのは、検証できないからやめとうというのが現代政治学の潮流ですが、スイスについては、妥協を好む国民性という特性を感じさせる要素は見出さずにはいられません。J・ブライスが、地方自治は民主主義の学校だと言ったように、政治参加することで自ずと市民意識がついていく、知的な能力向上も図られていく、市民が教育されるという、素朴で楽観的な見方がありますよね。他方、そういう教育説に対して、「アゲインスト・デモクラシー」を唱えるJ・ブレナンは、道具主義の観点から民主主義よりももっとよい道具がある、市民の知的向上なんて無理だといって教育説を否定している。でも僕は、スイスはやっぱり実践を通じて身に付けているところがあると思いますが。
掛貝 僕は教育説に賭けたい。ブレナンの議論は実証として成り立っていないと思います。ただ、スイスは基本的に州が教育政策を担っていて、民主主義や歴史の扱いもバラバラなので、スイス全体をベースに民主主義教育を考えるというのは難しいんですね。それでも、市民がアホだからやってもしょうがないみたいな議論に対しては明示的にNOです。
上田 サントリーの創業者の言葉じゃないけど、「やってみなはれ」とは思いますね。この言葉だけだと上から目線に聞こえるかもしれませんが、やってみたら市民も変わるかもしれない。私はこの前論文に、人びとが「よき市民」になるよう押し付けられていて、公共のことを考える市民でなければ市民とはいえないというのは、価値多元性(一つの価値を強制しない)に反するんじゃないかと、そういう話を書きました。ただ実際にやっていくことで、「こういうことが大事だと、みんなが思っているんだな」と感じたり、私的利益と公的利益のつながりを意識したり、あるいは自分の特性を見つけるとか・・・イニシアティブにせよレファレンダムにせよ、実践の積み重ねがある種の国民統合につながっているというのはあるんじゃないかな。
井上 積極的に政治参加しないと市民じゃないというイメージへの疑義は私もあって、参加しないのは彼らが非理性的な存在だからか、それとも参加コストを考えて参加できないのかというと、私は後者で考えています。住民参加論者が、簡単でもよいかもしれない政治参加のコストを逆に高めてしまって、多様な人たちの参加を妨げているところがあるのではないか。たとえばアメリカの州でLRTを延線しましょうというときに、延線の便益と税金の費用でYESかNOかという簡単な選択肢に基づく住民投票をやる。YESかNOかというのは、思考コストの低い決定を住民にさせることですが、それでも政治的有効性感覚は高まると思うんですよ。前半のNPMの関連で顧客としての住民という話をしましたが、どれを選ぶかというお買い物的な選択は、誰もが常日頃していることだから、ものすごく思考コストが低い。だからそれを入口にして政治参加を考えたらいいのではないかというのが私の戦略です。日本ではなぜ住民投票が実現しにくいのだろうと。
掛貝 まず、施設建設のようなシンプルな住民投票はスイスでもたくさんやっているし、僕はそれは財政民主主義の重要なパートだと思っています。日本でも建物に関する住民投票が請求されますが、たとえば水戸市民会館の建設にしても、議会で住民投票の実施が否決されてしまう。なんでやらないんだろうと思いますね。それから、スイスの例を踏まえて制度の頑健性を高めるなら、単純にYESかNOだけでない部分も住民投票の仕組みには含まれているということです。どういうことかというと、イニシアティブで署名を集めて直接投票を要求した場合、行政や議会の側がカウンター・プロポーザルを出す可能性があるわけです。同じ事案に対して二つのやり方が問われることがある―たとえば年金とかですね。単純に政府案に賛成か反対かではなく、バラバラに分けた上で、YES・NOが複数の次元にある、そういうやり方もできるわけです。
弱い個人の政治参加
上田 民主主義のコストへのコンセンサスをどう国民に提示するかが重要ですよね。
掛貝 スイスの場合、住民投票の投票用紙は印刷工場が決まっていて、その袋詰めなども含めて、そこで障害者を雇用することもあるようです。一度仕組みとして作ればコストは下がると思います。
―平時のインフラになれば雇用まで生み得るということですね。
掛貝 それから、強い個人でない人の政治参加はどうあるのかという点です。この本に出てくるジョセフ・ジシャディスさんは、個人として発信していて一見強く見えるけれど、実際は周りの人が不安がって支えるように集まっていて、これまで政治的資源とあまり見なされてこなかった「友情」を動員して、公の場に身を晒すことになった。その点がおもしろいと思ったんです。トクヴィルの言う「結社(association)」のイメージともまた違うような。最初にサポートしてくれた家主の人とか、訴訟に関わったけど匿名の人とか、表だって出てこなくてもサポートしたい気持ちがある人とか、そういう人たちも含めて参加とか民主主義を考えられたらいいなと思っています。
上田 ジシャディスさんのインタビューで、弱い個人に着目するというのはおもしろくて、もっと掘り下げてほしいと思ったのですが、彼本人は相対的に強い人間だと思うんですよ。日本の最近の選挙でも、勝手連的なボランティアが集まって大きなムーブメントができるというのは増えているけれど、やはり冒険的でアイコンになるような人がいて、そこに人びとが集まっているように見えます。
掛貝 ジシャディスさんは確かに強い個人という側面がありますが、それでも強い個人という視点だけで掬えない面を示したかったというのがあります。今の指摘は、山本圭さんが言うようなフォロワーシップと民主主義みたいな話ともつながる気がしていて、強い個人を起点にすることもある程度認めつつ、そこから広がりを考えるという方法は、ひとつの活路になるのではと思っています。
上田 それって結局カリスマ的支配者みたいな話で、(マックス・)ウェーバー再来じゃないけれど、カリスマ的なものに引っ張られていくということになるんじゃないのかな。
井上 ジシャティスさんがリスクを負担する起業家みたいな人だとして、それは何かリターンがあるの?
掛貝 リターンは期待していないと思いますよ。家族はやめろと言っているけど突発的に行動しているので。ただ、今のフォロワーシップの民主主義みたいなものって、左派ポピュリズムみたいなものにも接近していくと思うんですよ。そこまで含めて肯定的に評価していいのかというと、僕の中では判断を保留しています。
上田 この本で熟議の話もあったけれど、参加型とか熟議とか闘技民主主義とか、それらはサジェスチョンに留まっていて、個人的にはもっと詰めてほしいと思うところはありました。
掛貝 熟議を制度としてどう実装するかはこれまで議論の蓄積がありますが、僕は闘技民主主義の制度化の方に関心があります。とはいえ、理論的に熟議と闘技がどう違うのとか、制度として提案したときに結局NPMと変わらないんじゃないか、という疑問はあります。そもそもこれらを財政学でどこまで扱えるのか。別の分野に投げた方が、学問全体のコミュニケーションとしても適切かなと思います。
―今日の議論もそうしたきっかけになったのではないでしょうか。もっと語りたいところですし、こうした話をする機会を公開イベントのような形で企画してもおもしろそうです。今日はありがとうございました。
(進行・構成:山崎一希(茨城大学広報・アウトリーチ支援室))
書籍情報
- タイトル:財政民主主義の地平 スイスの自治・多様性・直接民主主義
- 著者:掛貝祐太
- 出版社:有斐閣
- 初版発行日:2025年3月30日
- 定価:本体4,500円+税