「数字」への依存はしょうがないの?
―掛貝祐太著「財政民主主義の地平」を読み、語る【前篇】

 人文社会科学部の掛貝祐太准教授(財政学)による初の著書『財政民主主義の地平 スイスの自治・多様性・直接民主主義』。今年3月の刊行以来、国内外のメディアでも取り上げられています。夏の参議院選挙では、減税か給付かという論点の単純化や、財務省への不信感なども取り沙汰される中、財政民主主義をどのように考えればよいのでしょうか。政治学が専門の井上拓也教授上田悠久准教授とともに同書について語りました。(人文社会科学部のコラム「人文社会科学部の書棚から」と広報・アウトリーチ支援室との共同企画)

 本書は、財政社会学の観点も交えて、頻繁に住民投票が行われる「半直接民主主義」の国・スイスの財政や政治参加の事例を丹念に分析した上で、財政民主主義の制度や実践のあり方を展望するもの。第一章では、政治学者のW・ブラウンや、『測りすぎ』というタイトルの本で知られる歴史学者のJ・ミュラーらの議論を紹介しながら、新自由主義、民間の視点を入れたNPM(New Public Management)、データなどの根拠を重視するEBPM(Evidence Based Policy Making)と財政民主主義の関係について批判的に検討する。

道具主義的な民主主義には共感できない

井上 裾野の広い学際的な議論を展開しつつ、全体を貫く芯があり、そこにスイスの事例を位置付けているという素晴らしい本だと思いました。また私のように政治学を専門とする者としても興味深く読める本です。

上田 スイスの連邦議会の議事録などを丹念に読み、政府間の財政調整制度の実際を明らかにしていくプロセス分析はおもしろいですね。私も、民主主義の制度や運用に関する政治学研究として読めると思いました。ただ、一次データが必ずしも詳細には示されないまま、まとまった分析が出てくるので、実証としてどのぐらい妥当なのかは分からず、そこは掛貝さんを信頼するしかありません。もっと分厚くしていろいろ書いてもよかったんじゃないですか?

掛貝 長い本、好きじゃないんですよね(笑) どういう文脈に載せるか、どういう共通理解のある人に読んでもらいたいかを考えたらこの形になりました。

上田 政治学者としてはディテールが大事だと思うし、そこをもっと読みたくなっちゃう(笑)

井上 「財政民主主義」とは何かということについて、まずは自分なりの理解を得たいと思っています。本書が対象とするのは、財政の過程の話なのか、それともこういう状態をもたらしたいという結果の話なのか。読んでいると過程の話なんだろうと思いますが、では国民がそれをどうコントロールするかという統制の問題なのか、それともどうすれば人々の声が税や予算に届くのかという反映の問題なのか。統制の問題だとして、議会などの間接的なコントロールの話なのか、直接的なコントロールの話なのか。これは後者ということですよね?

掛貝 はい。過程の問題であり、統制の問題であり、直接的なコントロールについてです。道具主義的民主主義と非道具的民主主義という議論があります。望ましい結果につながる道具として民主主義を定義する道具主義と、規範的な意味で民主主義が望ましいという非道具主義で、僕は非道具主義の立場です。道具主義で考えた場合、プロセスではなくアウトカムに対してネガティブな影響があるから民主主義がダメという人がいるのですが、ではその道具でどういう目標を立てようとしているのかということ自体に社会の諸価値があるわけで、その中で価値を選ぶのが民主主義だと思っているので、道具主義的な民主主義には共感できませんし、やはり過程の問題だと思います。

掛貝准教授の横顔の写真
掛貝祐太准教授

定量的評価を主張する学者たちはそこまでナイーブなのか

井上 財政民主主義というのは理論なのですか?それとも分析対象なのですか?行政学の場合、理論としての行政統制論と行政管理論は区別されて、いずれにもイデオロギーが含まれるわけです。

掛貝 実践が先行して理論が後追いしているイメージ、あるいは追いつ追われつだと思います。昔は、国会が予算を承認しているんだからそれは民主的に支持されていることだという素朴な意見もありましたが、少し異なる民主主義のやり方が広がるにつれて、「これも財政民主主義に入れていいよね」というふうに財政学の議論が広がってきました。

井上 財政民主主義も、「行政を民主的にコントロールしなくていい」という話にはならないんでしょう?ということは、価値、イデオロギーが所与になっていますよね?

掛貝 僕は所与と思っていますが、この本で触れている逆進的所得税の例のように、好ましくない結果をもたらすことはあるわけです。直感的な理解に過ぎませんが、学問の歴史でいうと、ドイツの官房学的、国民管理的な発想から(制度派の)財政学は始まっていて、財政民主主義はそれに対するアンチテーゼだったのだろうと思っているので、民主的にコントロールすることは所与になっているのだと思います。

井上 気になったのは、この本では定量的評価や数値化、EBPMへの疑義が示されていますが、それらを主張する学者たちは、数字による中立性について果たしてそこまでナイーブなのか、自らのイデオロギー性を自覚しながらやっているのではないか、ということです。政治学でも、1960年代には行動科学革命などと言って何でも数字にしちゃえという動きがあったものの、1969年頃にはもう「違うよね」という話があり、しばらくするとまた数が復権して…というふうに歴史を繰り返しているので、今の潮流もいずれはひっくり返るのではないか。そもそもNPMは、数値化と直接には関係なく、単に民間手法を導入しましょうということでもありません。行政のトップの立場から見て行政をどう安くするか、効率化するかというのは行政管理論であって、それに対してNPMは、顧客としての国民・住民という立場から議論を作っているんです。そういうNPMの本来の視点は本書でもあまり意識されていないように思いました。

手振りを交えて話す井上教授
井上拓也教授

掛貝 僕にとっては、概念を演繹的に定義することより、実際の場においてどういう意味を持っているかが気になっているのだと思います。量的な根拠を満たさなければエビデンスではないという人もいれば、エピソードや現場の判断も含めたエビデンスというのもあり、各シーンでどの解釈が政治的に力を持っているのかというのは中立ではなく、また透明でもないですよね。そこに焦点を当てる必要があるのではないか。解釈によっては良い側面が取り出せなくもない概念だとしても、そうでない部分が影響力を持っているのだとしたら、その概念を単純に擁護するのは無理筋な議論なんじゃないかと思います。

井上 つまり、NPMに対する日本的な理解の問題ということですね。スイスはどうなんですか?

掛貝 どちらかというと、NPMのようなものの政治的な影響力が1990年代に入り始めたけれどブロックされた、というストーリーだと思います。労働市場改革についても、NPM的な量的指標を入れて補助金制度を変えようと思ったけれど、「なんでそんなに冷遇されなきゃいけないんだ」と州から文句がついてブロックされました。その意味では日本の方が、悪い側面が影響力を持っていると理解しています。

政治vs経済という図式的な二項対立

上田 この本では政治vs経済という対立を持ち出してきて、新自由主義は政治的なものを経済にしてしまった、という枠組みをバッと出している。その二項対立があまりに図式的で、それを大前提に議論が進んでいくことには不満がありました。新自由主義をやっつければ説明した感みたいなことがしばしばありますけど、そういう単純化した議論に見えてしまうのがもったいない。

掛貝 新自由主義を批判して何か言った気になるのは違うというのは、僕も思っています。なので、まずはブラウンの議論を紹介して、新自由主義批判に複数のパターンがあることを書いたんです。とはいえ、「ガバナンス」「マネジメント」といった言葉のように、財政に関わる評価軸や行為の手法や慣習の中に経済的なものが既に入っているというブラウンの指摘は本質的だと思っています。それを具体的な制度や政治過程に落とし込んだ議論の新しさに、僕は賭けているんです。確かに政治と経済の二項対立で単純化されているかもしれませんが、そもそも現在の財政学は経済の一現象として捉える見方が強くて、政治と経済の中間に財政があるということ自体が忘れられているように思っているんです。

上田 それなら、政治とはこういうもの、経済とはこういうものということを、もっとはっきり示しておくべきなんじゃないか。たとえば本の中でも、ブラウンが挙げる「政治的」な課題として、メディケア、累進課税、科学技術研究、教育、クリーン・エネルギー、性差別と家庭内暴力、最低賃金の引き上げ、移民制度改革・・・と挙げられていて、あらゆるものが入っているけれど、結局「政治」とは何ぞやという話がわからない。政治は価値を扱うものという見立てですが、それもどうなのかと。経済では価値の問題を扱わないの?

上田准教授が掛貝准教授に向けて話す
上田悠久准教授

掛貝 経済は価値を扱えないと言っているのではなくて、価値中立的な見た目で価値を扱っているのだと。

井上 それは政治家や官僚も同じですよね。価値中立性や客観性を装って政治的なことをするわけじゃないですか。EBPMを推進しているのも官僚なんだから。

掛貝 確かに価値を扱うものとしての「政治」というのは、少し狭く定義していたのかもしれません。一方で、実践的な視点から見ていくとき、政治とは何か、経済とは何かという概念を先に提示して現状分析していくと、どうしても頭でっかちに議論になりすぎだと思うんですよね。

上田 だとすると、それをわざわざ「政治」と呼ぶ必要もないし、政治と経済を分ける必要もないかもしれない。でもそれを分けているからどうしても中途半端な印象になってしまうのかもしれません。定量的に測れないものがあるというのも、指標に恣意性が入ってしまうというのも、みんな百も承知で、でも、そうしないとしょうがないところがある。さまざまな計画や目標の達成度合いを価値ベースで評価しようと言ったって、実際はどうやるのか。事務的に積み上げられたさまざまなデータをもとに、最後は政治家が責任をもって判断すべきという議論があるけれど、それも「政治とは決断である」というカール・シュミット的なひとつの見方でしかない。政治は決断ではなく合意だから、合意形成に最もふさわしいエビデンスは何か、という観点から評価を作っているともいえるかもしれない。

「しょうがなくない」と言いたい

掛貝 さきほどの「しょうがない」ということについては、僕はやっぱり「しょうがなくない」と言いたいです。大学の例ですと、たとえば文部科学省が定量的な評価で大学の動きを縛ろうとしたときに、国立大学などでは、もう少しボトムアップの合意形成や大学自身による評価に重点を置こうと言って、面従腹背を図ろうとするわけです。上から定量的な評価を降らせるのをブロックするのであれば、ボトムアップの定性的な合意形成というのはひとつの道だと思うんですよね。それはスイスの州政府と連邦政府の関係も同じです。もう少し現場の合意を信じてもいいんじゃないでしょうか。ただ、定量的な評価が降ってくるのにも理由はあって、特に不信感が強い部署ほどより定量的な説明責任が求められるということはよくあるわけです。日本の財政でいえば、大学とかも特権階級として捉えられて、しかもあまり信頼がないから、定量的な評価で客観的に説明せよという圧力が強くなる。そういう負の循環もありますし、J・ミュラーのいう「測りすぎ」という問題も含めて考えると、ボトムアップ的な合意形成をもっと信じた方がいいと僕は思います。

(進行・構成:山崎一希(茨城大学広報・アウトリーチ支援室))

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