今春開催された「みんなの“イバダイ学”シンポジウム『イバダイの価値を問う』」で、科学史家の隠岐さや香さんが、「今、日本の大学が世界のためにできることー地域から発信する平和と自由のための教育・学問」と題して基調講演しました。「平和というのは自分にとってもチャレンジングなテーマですが、世界が異常なほど不安定な感じになってきた中、地方・地域と平和という視点で考えたくなりました」と切り出しました。
今、日本の大学が世界のためにできること
ー地域から発信する平和と自由のための教育・学問
ほんの4日ぐらいまでノーベル賞とゆかりの深いスウェーデンに出張していました。ストックホルムで生まれたアルフレッド・ノーベルは、兵器や爆薬の開発に従事して莫大な利益を挙げ、「死の商人」と言われたこともあり、実験で自身の家族も亡くしました。晩年、遺産の運用益を人類のために貢献した人たちに賞の形で配分するということを遺言にしたためました。
ノーベル賞の5つの賞を選ぶ主体はそれぞれ違いますが、そこにはノーベルなりの配慮が働いているようです。このうち平和賞はスウェーデンではなく、隣のノルウェーの国会が選ぶことになっています。当時はスウェーデンの王様がノルウェーも治めている併合状態で、ノルウェー人は不満をもち、独立したがっていたことから、スウェーデンの側にはやましさがあり、平和賞を選ぶ主体としてはふさわしくないなという感覚をノーベルが持っていたようです。その後2度の大戦にも関わらず、一人の私人の願いをもとにした国際賞100年以上有名であり続けるというのはすごいことです。その理由については科学史の業界でもよく話題になりますが、ノルウェーとスウェーデンという土地柄が良かったのだろうという結論が比重を占めています。ヨーロッパの一地方といえなくもない地域から科学や平和を発信した、そのポジションがちょうどよかったのだと。地方だからこそ意味があるような国際的発信があるということに、最初に着目しておきたいと思います。
私は―物議を醸すかもしれませんが―日本は「田舎」だと思っています。国際社会の中で田舎。これは日本だけではなく、冷戦崩壊後、「中心」がなくなり、世界各国の地方化、田舎化がもたらされている。それでも今、アメリカがビジネスや科学の中心たる都会だとするなら、実はその都会こそが政治的な対立などの危機に晒されているということです。今後都会が消滅するとき、もともと田舎だった日本、あるいは日本の大学は、それでも良き田舎でい続けられるのか。それがこれから議論したいことです。
さて、大学とはそもそも何か。大学=universityと呼ばれるものは、ヨーロッパの12世紀頃から始まりました。それまではあらゆる知的なことは身分や職業の枠内で行われるか、教会が担っていたのが、そこから自由に自分たちで学びたいことを学びたいという集団が出てきて、組合みたいなものを作ったのが大学の始まりです。教会や地域社会からは警戒される中、世界各地から人が集まり、自分たちで学びたいものを決める。それが大学の基盤にあるわけですね。
大学ができると学問分野が発展していきます。18世紀の「百科全書」という本に記された分類では、文系・理系という区別はまだあまりなくて、「哲学」の下位分類に、一般形而上学とか神の学、人間の学、自然の学などと書いてある。ここで人間の学と自然の学という分かれ方をしているのがポイントです。
さらに神について考えなくてもいいという時代になると、かつての神のように自然を完全に把握するのだと言うと自然科学の学問になり、神が人間の世界に定めていた秩序を人間が作り替えてもいいのだと言うと人文社会科学的なものになってくる。人間はバイアスの源泉だから大量観察して機械で記録し、なるべく正確に自然の現象を把握しようという学問の方法を取るのが自然科学。一方、人文社会科学部は、人間の考えることを中心に物事を組み立てていこうとする学問で、これはある意味で普遍性よりも個別性、「違う」という価値を大事にしています。
ですから大学は、非常に異なるものをまとめているおもしろい集団なんです。したがって大学は共同体であるという点を大事にしていくしかないのではないかと思っています。そして共同体である以上、集金マシーンになってはいけないと常に思っています。
ここで我々がどういう問いに直面しているかというと、大学は共同体ですが、学費が上がりすぎると共同体であることが難しくなるという側面があります。学費の高い大学というのは、いわば知識や学びといったものを商品として買うような組織に近づいていくわけです。アメリカの大学の経営論のコースでは、学生は自分の将来のために大学という場所に行き、教育をサービスとして買うのだという発想が強い。一方、例えば公費負担を原則とするスウェーデンモデルでは、知識はみんなで無料で分け合うものであり、その公共の場所である大学は無料であるべきだと。大学の起源からすると後者の発想が強いのですが、商品としての知識というのも完全には否定できず、難しい。今世界中で学費が非常に高くなってきていますが、大学はどういう場所なのかということを立ち止まって考えなければいけない、そういうタイミングに来ていると思います。
最後に、今、日本がどういうところにいるのかということに触れます。現在は国際的な学問の自由の危機の時代といわれています。学問の自由を測る指標では、冷戦の頃と同じくらいになってきている。ところが、最新のレポートでは日本の順位が良い方に変動したんですね。これまで日本の順位はあまり高くなかったんです。2023年の段階だと179カ国のうち、下から数えて3~4割の位置。それが今年はなぜか急上昇して上位3割~4割に入っています。まだきちんとした分析はできていませんが、例えば最近西洋諸国ではパレスチナの問題などで厳しい言論統制がかかっていたのに対し、日本はそうした規制の雰囲気から免れていたということも関係しているかもしれません。
学問の自由の指標で日本は確かに低空飛行を続けてきましたが、一方で激しい変化をしていないグループでもあるのです。欧米諸国やインドといった地域は軒並み悪くなっていて、実際に学者が訴えられたりすることが増え、自由に発言しづらい雰囲気があります。それに対し、日本は急に政治不安が起きて言論の自由、学問の自由が抑圧されたということは起きていない。ですから、これをこのまま保てるかどうかが実は大事なのです。それは何もしないという意味ではありません。むしろ、かなりきちんと考えていかないといけない。
かつて「イノベーション」という言葉は、断絶的すぎる変化という悪い意味で使われていました。17世紀の哲学者・ベーコンは、「大革新(=イノベーション)を行っているものは、時間そのものの例に倣うとよいだろう。それはどんどん新しくなるわけだが、しかし静かに、そして徐々にするのでほとんど気づかれない。変化を引き起こすのは、改良のふりをした変化への欲望ではなく、改良しようとする意志であるように気をつけておくとよい。そして最後に、新規なことは、拒絶されてはならないが、疑惑の的であるようにするのがよい」と言っています。時間は確かに流れているものの、流れていることにはほとんど気付けない。そういう「静かなイノベーション」にこそ、大学と地域社会が一緒に何かを考えていく秘訣、あるいはこれから未来を考える希望があるのかなと思っています。
常に大学という場所は、原点に立ち戻って疑いながら考えていく場であるのではないか。そして、今が苦しい時代からこそ、世界の片隅、田舎のような場所から自由な対話を呼びかけるということが大事だと私は思っています。そのときに、静かなイノベーションというものを考える、提案していくということが、地方から、あるいは日本から、大学が世界のためにできることであると考えている次第です。
「みんなの“イバダイ学”シンポジウム『イバダイの価値を問う』」
2025年3月22日、茨城大学創立75周年・創基150周年を記念した取り組みとして開催。会場には約100人が足を運びました。隠岐さんによる基調講演のあと、教育、研究、地域の価値という3つの切り口ごとの分科会に分かれ、若手・中堅・ベテランの教員が一緒になって議論を展開。参加者のみなさんからもたくさんのコメントや質問をいただきました。
この記事は茨城大学の広報紙『IBADAIVERS(イバダイバーズ)』に掲載した内容を再構成したものです。
構成:茨城大学広報・アウトリーチ支援室