トップに戻る

【教育学部ウェブマガジン】創刊号特集「教育を研究すること」
【座談会】教育と研究:「教育を問い続けること」を読んで―生越 達・阿部信一郎・青田庄真・千葉真由美・片口直樹・木村勝彦・伊藤 孝

伊藤 孝(理科/司会):今日は生越先生の論考「教育を問い続けること」をもとに、教育学部の教員7名で議論をしたいと思います。まずは、感想やそこから考えたことを自由にお聞かせください。

生越、伊藤

学校という場所

青田庄真(英語):生越先生の論考は、勉強の連続でした。特に、教育の押しつけがましさ、同質性の助長といった、現在の教育の問題点を鋭く指摘されていた点が印象的です。また、最終的に提示された「居場所としての学校」という概念も、今後の新しい教育や学校像を考えるうえで、とても示唆的だと思いました。

生越 達:「居場所としての学校」は、私が長年考えてきたテーマです。言葉にすると簡単に聞こえますが、これは非常に難しい問題です。学校はその性質上、どうしても同質化を助長する傾向がある。そんな学校が、誰かの「居場所」となるにはどうしていけばいいのか。皆さんにご意見をいただきながら、議論ができたらいいと思います。 

木村勝彦(社会):学校は、さまざまなことを効率的に教えるために作られた近代的な組織なので、どうしても同調を促すようなところがありますね。実際に、そのせいで起きている問題も少なくありません。こうした課題に対する一つの回答として、生越先生は「居場所としての学校」という方向性を挙げたのだと思います。同質性というなかなか消しがたい性質と、それを改善しようという方向性。この二つをどのように着地させていくべきか、議論を深めていきたいと思いながら、生越先生の論考を読みました。

生越:木村先生がおっしゃるように、近代学校はそもそも人材養成の場所ですね。これまで日本の学校教育は、過度に同質化を求めてきた部分がありますが、その価値観も今や変化しつつあります。
 例えば社会学者の中には、「脱学校」など、学校という存在から離れようという考え方を提唱する人たちもいます。いつまでも学校にこだわっているのは時代遅れだ、というわけです。しかし私は、その論調には乗れません。まだ、学校という場所に期待をいだいてしまうんですね。かといって、今の学校を肯定できるかといえば、それも難しい。私自身も、学校という場所の性質について、とても悩ましく感じています。

承認と自己受容

青田:現代社会は、SNSとは切り離せないものになっています。SNSによって情報が氾濫して事実に辿り着けないこともあれば、検索履歴から生成されたアルゴリズムによって、自分の考えに近い情報ばかりが表示され、狭く偏った価値観に没入してしまうこともあるでしょう。
 そうした状況において、学校は、ある種安全な「小さな社会」だと捉えることもできると思います。SNSの中の情報は、ときに価値観を歪めてしまったり、過激化させてしまったりすることがあるかと言われています。だからこそ、他者に自分を受け入れてもらう、自分も他者を受け入れるという体験を、学校という「小さな社会」の中で積むことが、子どもたちにとって、とても大切な体験になるのではないかと思います。

生越:今の子どもたちは、承認欲求がとても強いですね。しかし彼らは「人に見せられる自分じゃなきゃ、見せちゃいけない」とも感じているように思います。そんな彼らに私が伝えたいのは「自己肯定感ではなく、自己受容感を育てましょう」ということです。今の子どもたちには「⾃分は⾃分でいいんだ」という「自己受容感」が強く欠落しているように感じられる。青田先生がおっしゃったように、子どもたちがありのままの自分を受け入れてもらい、同時にありのままの他人を受け入れる。こうした体験をする場所として、学校は必要だと考えたいですね。

生越、木村

対話の重要性

阿部信一郎(理科):我々は、一人ひとりが考えて言葉を話し、意思疎通をすることで社会が成立していると思いがちです。しかし、実際はそうではありません。人間社会は、一人ひとりが他人と関わって相互作用をするなかで共通の解釈を形成していき、各自がそれを基にして行動することで、作り上げられています。こうして成り立っている社会において、承認という行為自体は、大切で必要なプロセスであるはずです。
 しかし、社会を維持するためだけなら、ただ単純に承認を繰り返していけばいいわけですが、今やそれだけでは社会が成立しなくなってきています。承認欲求さえ、理性でコントロールしなければならないものとなっているように感じます。
 そんな社会において必要なものとして、生越先生は「対話」を挙げられていました。一般的に、「会話」はとにかく話すこと、「対話」はある程度向き合って話すことが目的であるように思います。生越先生は、不登校の子どもたちへのカウンセリングの中で、どのように対話やコミュニケーションをし、子どもたちのどんな変化をご覧になってきたのでしょうか。 

生越:私がフリースクールに関わる中でやってきたのは、まず対話が成立する関係性を作ることでした。当時は「不登校の子どもはそっとして、刺激を与えないようにしましょう」という考え方も根強くありました。しかし、こうした考え方に対し、私は違和感を覚えました。だからこそ、フリースクールにやってきた子どもたちが、それぞれの想いを語れるような場をどう作っていくかを考えてきたわけです。
 例えば、ずっとゲームしかしない子には、ゲームの話題に付き合いながらただ話をする。その子を自分の話題に引き寄せようとするのではなく、ひたすら雑談をしていました。僕は、こうした向き合い方は、個別の対話だけではなく授業という対話の中でも可能だと思っているんです。もちろん、私たちには私たちの想いもありますが、それを相手に押し付けることなく話を続けていくことは、きっと授業でもできるはずだと思っています。
 私がこうした考え方に自信を持ったのは、フィンランド発祥の統合失調症の治療法「オープンダイアローグ」が、まったく同じ構造を持っていたからです。昔の日本の精神医療において、統合失調症は投薬と入院で治療し、あとは患者をそっとしておくというのが定石でした。しかしそれだと、患者は社会復帰ができなくなってしまいます。しかし「オープンダイアローグ」は、医師と患者だけではなく、周囲の人たちも巻き込んで対話を繰り返していくことで、患者の心を開いていく。立場の異なるものが対等にただ話をすることに意義があるのだと、私は確信しました。

同質性をどう乗り越えるか

片口直樹(美術):生越先生の論考のなかで、「同質化傾向を壊していく」という言葉に共感しました。私は美術教育に携わっていますが、まさに美術はそういう教科だと思います。
 例えば、絵のコンクールで大体同じような作品が並んでいるのを見ると、やるせなく感じることがあります。しかし指導者の立場としては、どの子どもたちに対しても、一定程度の画力を身につけさせる指導も必要だ、という考え方もあります。みんなで静物のデッサンを練習すれば、必然的に似たような絵に近づいていくし、こちらもそれを求めているわけですから。しかしその先の表現については、違いや個性を求めています。同質的な基礎力を鍛えることと、それを壊して個性の表現につなげていくこと。これらは表裏一体で、両方必要なのだと私は思います。
 またそれは、生越先生も指摘されているように、教員に対しても必要なことではないでしょうか。教員全員が同じ考えを持っていたらおかしいけれど、私たちが同じ方向を向いていなければ、良い教育にもつながりません。「クラッシュ・アンド・ビルド」の繰り返しが必要だと考えています。

生越:特に美術や音楽、体育といった教科には、5教科とは異なる独特の目的がありますね。自分に沿った形で表現をしていくことには難しさもありますが、そこにはやはり重要な学びがあるように思います。
 また私も、子どもたちへの向き合い方は、そのまま教員同士の関係性にも大きく影響すると思います。主観ですが、子どもたちと丁寧に対話をしている教育現場は、職員室の空気も軽いんですね。教員が意識的に同じ方向を向くことも必要ですが、むしろ子どもたちとの関係性や雰囲気の中で、教員のチームも形成されるようにも思いました。
 実際の教育現場は非常に忙しく、教員の負担が非常に大きい。それが、教育の均質化や、子どもたちの同質化を助長している部分があります。こうした状況を変えていかなければ、私は先生という仕事の魅力がなくなってしまうと思うんです。だからこそ、まずは同僚性を構築するような教員間の対話が重要ではないでしょうか。

青田:私も美術が得意ではなかったのでよくわかりますが、「自分らしさを見つけましょう」と言われることが、ときに苦痛に思われる場合もあったように思います。生越先生の論考の中にも、『「⾃分は⾃分でいいんだ」と思えるようになることが必要なのです』と書かれている箇所がありました。主旨はとてもよく分かるのですが、同時に、現代社会でそれを実現するのは簡単ではないのではないかと心配にも思ってしまいます。SNS社会で生きる今の子どもたちは、自分と同じような人間なんてごまんといることを知っています。そんななかで、彼らに「自分らしさ」を見つけてもらうために、教育にはどんなことができるのでしょうか。 

片口:いま青田先生がおっしゃったように、『「何を描いてもいいよ」って言われても……』と苦痛に感じてしまう子どもは一定数います。幼児の頃は思い思いに絵を描いていたのに、教育段階のどこかで一種の同質化を求められた瞬間に、自分らしさが失われ、自由に絵を描くことができなくなってしまうんですね。学校教育の中の「こういうふうにしなさい」という課題の与え方が、彼らにこうした苦手意識を作ってしまっている側面もあると思います。教育のこうした一面を、我々は理解したうえで教育に関わっていかなければならないように思います。

片口、木村

学校は割り切るべき期間か

千葉真由美(社会):子どもたちにとって、学校は家から出て初めて触れる「社会」だと思います。そこで初めて、彼らは「人と関わることって、こんなに大変なんだ」と学ぶ。そうした意味では、同調性だって、人と関わりながら生きていくうえで学ぶべきものの一つだと言えるのかもしれません。そもそも学校は、楽しいばかりではなく、元々つらい場所のはずですよね。承認欲求が強いと、どうしても相手を見る力が不足してしまいますが、学校は他人を知って相手を理解することを学ぶための場所だと割り切ったほうがいいのではないか、とも感じます。
 私自身も学校は好きではなかったし、「みんな一律にやりなさい」という教育を良いとは思っていません。しかし、基礎を学べるのは学校しかない、とも思っています。私は日本史専攻ですが、日本史の研究は、膨大な既往研究を学んだその先に、やっと独自性を見出すことができるものです。同様に、子どもたちも「学校とは、基礎の教養や人間関係を学ぶ場所で、その先に次のステップがある」と理解したうえで学校生活を過ごすことができれば、息苦しさを軽減できるように思うのですが。

生越:「学校は基礎を学ぶための場所で、その期間は我慢しよう」と捉えるのも、一つの発想かもしれません。とはいえ、学校に通えなくて不登校になった子どもたちが、人間関係の基礎や社会性を形成できないのかといえば、もちろんそんなことはありません。学力に関しても、同じことが言えます。そういう子どもたちは、バランスが悪いところはあるものの、好きなことに対しては、凄まじい知識を持っているものです。バランスが重視される学校という装置の中では、それがなかなか認められないというだけ。だから僕は、必ずしも学校を通過しないと社会の中で通用しないとは思わないんです。ただ、対話は必要だと思います。僕はそれをフリースクールで準備しようと思ったし、学校が少しでもそういう場所を用意できればと思います。

子どもたちが社会化するには

千葉:結局、教員の理解が、もっと多様になっていくしかありませんね。子どもたちではなく、我々大人が考えていかなければならない。

生越:そうなんです。私も、あらためて教員の同僚性の構築が大切だと感じています。もっと教師のものの見方が多様になる必要がある。その文化を変えていけば、学校教育にも可能性があるのではないか、と思います。

阿部:社会化とは、既に社会化した大人が、これから社会化していく子どもたちと関わるということによって起きるものだと、私は思います。しかし、そこには難しい部分もある。例えば「思いやりが必要だ」ということを自分で知る前に、先に大人たちが「思いやりが必要でしょ」という枠にはめてしまったら、それは押し付けになってしまいますよね。我々が作為をした段階で、もうそこにレールができてしまうように思うんです。

千葉:でも、自然に思いやりの感情を持たせることは可能なのでしょうか。

阿部:それはもう、偶然に賭けるしかないと思います。そしてその偶然を生み出すには、彼らに関わっていくしかない。関わって関わって、その先に生まれてくるものなんだと思うんです。集団としてある程度は、平均的な反応があると思いますが、やはりそこからはみ出す子どもたちも出てきてしまう。しかしそういう子どもたちも社会化するにはどうしたらいいのか。私たちが考えなければいけないと思います。

千葉:今の子どもたちは承認欲求が強く、自分のことばかり考えているところがあります。彼らは「思いやられて当たり前だ」「他人を思いやる必要はない」という発想になってしまうのではないか、と私は思います。

阿部:というよりは、おそらく、自分が思いやられるのが当然だとさえ思っていないと思います。要するに、思われるということ自体を、そもそも理解していないんじゃないでしょうか。成長してある程度の知恵がついてくれば、言葉にぴったりの感情を当てはめるだけで、現段階では「思いやる」ことを本当の意味で理解していないように思います。繰り返しになりますが、大人が「思いやりを学んでほしい」と作為をもった段階で、逆説的にそれを概念化させてしまうという点です。

千葉:しかし、それがいわゆる「教育」でもありますね。

阿部:一般的には、自分が誰かに思いやってもらったことで、その人を好きになり、自分もその人に何かをしてあげたいという気持ちが湧いてくる。それによって幸せな気持ちを感じるんだと思うんです。そのとき初めて、子どもたちは他人を思いやるということを理解するんじゃないかな。

千葉:それはとても理想的なプロセスですが、一方で「絶対に、そんなふうにうまくはいかない」という意見もあると思うんです。

阿部:うまくいくかどうかは、わかりませんね。しかし、例えば「愛」のように、人間のさまざまな感情は言葉になっているじゃないですか。それは感情が共有されているからこそ、言葉になっているんだと思うんです。子どもたちにもその感情を実感してもらうには、やはり関わり続けていくしかないのかな、と思います。

阿部、千葉

教員の環境を考え直す

片口:私が教員1年目に受け持ったクラスにも、不登校の子どもがいました。中学校の頃から不登校で、高校に進学して最初は頑張ったけれど、やはり途中から来られなくなってしまったんです。新米教師の私には、押し付けだろうがなんだろうが、毎日電話をかけることしか、できることがありませんでした。その子が電話に出てくれなくても、電話がかかってきたことだけは、保護者から伝わりますから。
 結局、その子は1年生の間に退学してしまいましたが、2年後に「今は夜間学校に通っています。ありがとうございました」と保護者から連絡があったんです。学校に来てもらうことはできなかったけれど、別の何かの行動につながっていったんだと思えました。

生越:フリースクールに関わっていると、社会的自立ができた子どもと、できない子どもの違いを感じます。彼らの社会化に何が効果的だったかを考えてみると、それは学校に通ったかどうかではありません。「あの先生、よく俺の話を聞いてくれたな」という経験なんですね。それを思いやりと呼ぶのかはわかりません。しかしこうした経験は、社会に出るときのモデルになるんですよね。「社会って、そんなに怖くないかもしれない」と思えると、社会的自立に結びつく。片口先生は、多分そういうことをやられたんだと思います。私がフリースクールでやりたかったことも、まさに同じだと思います。

阿部:社会は大人数で暮らしていかなければならない場所ですが、学校は、ある一瞬一瞬の特別な存在と関わることが重要になる場所だと思います。我々にとって重要なのは、何かの理論に基づいて行動するのではなく、結果がどうなるかわからなくても足掻いてみることなのかもしれませんね。片口先生は、その子に関わり続けるべきだと思い、そうした選択をしたわけですよね。先生の行為が相手にどのように伝わるかは、予測することはできないし、理論化もできません。結果を重視せず、関わることに専念することが実践なのかもしれない。しかし、それを教員に求めることも、とても酷なことに思います。

千葉:こちらが子どもたちに思いやりを持って接しても、彼らがそれを受け止めてくれないという状況だってあり得ますよね。片口先生は熱心に対応され、それが最終的には相手の心に響いたのだと思います。しかし、やっぱりそれが響かない子も、必ず一定数はいるはずです。そういう状況で、教員が同僚とも向き合い、子どもたちにも向き合うというのは、すごく労力がかかってしまう。

阿部:私もそう思います。拒否している相手におせっかいをずっとやっていくことは、とても労力を要します。そもそも、1クラスの子どもの数が多すぎますよね。35人全員に対してそれをするのは、ほぼ不可能でしょう。もしかしたら、学校の授業でやろうと挑戦するべきことではなく、補助ツールを使ったり、クラスあたりの教員数を増やしたり、現実的な解決方法を考えなければ、綺麗ごとで終わってしまうように思います。

片口:私が勤めていた私立高校は、1クラス48名もいました。そもそも、新任若い教員に48人を見させること自体、とても困難ですよね。学校側の経営の都合でしかありません。

伊藤:そろそろ、今日の議論をまとめたいと思います。先ほどの阿部先生のお話は、まさに生越先生の論考でも触れられていたポイントですね。働く場を整え、教員1人ひとりの心に余裕が生まれれば、負担は減らなくても負担感を減らすことはできるかもしれません。教員1人ひとりが幸せであることが、子どもたちにとっても、とても重要なんじゃないかと思いました。
 今日は、私たちも答えがわからないことを話し合う時間になりました。この座談会を読んだ高校生の皆さんに、「教育学では、まだまだ考えることや学ぶことがありそうだ」と思ってもらえれば、と思います。

阿部:まとめるのは、とても難しいですね。変にまとめようとすると、ただの綺麗ごとになってしまいますから。

伊藤:最後に、生越先生から一言お願いします。

生越:私は、教員も「できないことはできない」と言うべきだと思っています。その日に無理をしてまで、子どもたちの話を聞く必要はないし、私はそれが正しいと思うんです。自分や家族を大切にした先じゃないと、子どもたちにも向き合えないように思います。今日もお話ししたように、大切なのは、対話を通して関係性をどう築いていくかっていうことなのだと思います。そのときに、学校という場所がどのようになれば良いのか。うまくまとめることはできませんが、そこでは、教員がとても大切な存在になると思います。今日はありがとうございました。

この記事をシェアする

  • トップページ
  • ニュース
  • 【教育学部ウェブマガジン】創刊号特集「教育を研究すること」【座談会】教育と研究:「教育を問い続けること」を読んで―生越 達・阿部信一郎・青田庄真・千葉真由美・片口直樹・木村勝彦・伊藤 孝