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【教育学部ウェブマガジン】創刊号特集「教育を研究すること」
【論考】「教育を問い続けること」生越達

はじめに~アマラとカマラの物語

 みなさんと同じ高校生のころ、アマラとカマラの物語のことを知りました1。狼に育てられた二人の女の子の物語です。カマラ(当時8歳程度)は四足歩行で非常に速く走ることができました。しかし、もちろん二本足で歩くことはできず、言葉もしゃべれないし、コップで水を飲むことすらできなかったのです。シング牧師の日記のなかには、カマラが鳥の死骸を食べる様子やその死骸を奪おうとする鳥たちを追い払う様子が描写されており、衝撃を受けたことを覚えています。今日では、この物語は真実ではない可能性が高いことが生物学者などによって指摘されていますが、当時は真実の物語として学びました。みなさんのなかには真実でない可能性の高い物語をなぜいま取り上げるのかと訝しく思う方もいるのではないかと思います。しかし私にとっては私が学んだときのこの物語の取り上げられ方に疑問を持ったのです。それでみなさんと一緒にこの物語をどんなふうに理解したらいいのかを考えてみたいと思ったのです。

 当時調べてみると、教育学ではこの物語は人間の陶冶性と関わらせて論じられていることがわかりました。陶冶性とは教育によって人間の能力や素質が発達する可能性のことです。人間は本能で規定されている部分が少ない分、教育によって自らの能力や素質を伸ばしていくことができる存在だということです。この考え方は人間の他の動物に対する優位性を表現しているとも考えられると思います。さて、みなさんは教育学におけるこの物語の受け止め方にどんな印象を持つでしょうか。

 私はどうだったのかと言うと、なぜか引っかかってしまったのです。教育を受ける当事者であるカマラはどんな思いでシング牧師夫妻の教育を受けたのだろうかと考え始めてしまったからです。日記を丁寧に読んでみると、カマラは親代わりだった狼を目の前で殺されましたし、肉を食べることを禁止されてしまいました。もし私がカマラだったら、8歳になってから二本足で歩くことを求められ、新しい言語を覚え、人間としての生活を送れるように訓練されることには耐えられなかっただろうと考えたのです。教育は人間にとって確かに重要だけれども、一方では押しつけがましいものでもあるのではないか、それがその時私に生まれた問いでした。その時はその問いが私にずっと引っかかり続けるとは思ってもいませんでした。しかしそれは私にとって迷いの始まりでもあり、いまだに解決していない問いとして残っているのです。自分は今までずっとそのことを考え続けてきたのかなと思います。

1. 人間存在の本質としてのつながり

(1)多様性を尊重すること

 その後、私は大学に入り、それでも大学にはろくに通いもせずに、特別支援学校2を尋ねたり、精神科のデイケアやフリースクールにかかわったりするようになりました。同時に様々な実践家の本を読み始めました。

 そのなかで障がい児教育に深くかかわり近江学園をつくった糸賀一雄が「この子らを世の光に」と言っているのを知りました3。普通に考えると「この子らに世の光を」が正しいように思います。障がい児は可哀そうな存在なのだから、少しでも世の温かい光を与えるべきであるということです。ところが糸賀は重度の障がい児にかかわりながら、障がい児もまた個性的な存在として自己実現を果たしうる存在なのであり、そのことを認め合える社会を作っていくことが重要であると考えたのです。そうした社会を築いていくためには障がい児の存在そのものに価値があるというのです。さらに糸賀のもとで教育にかかわった田村一二は端的に「ぜんざいには塩がいる」と表現しました4。障がい児を塩と表現することには抵抗があるかもしれませんが、ぜんざいが甘くなるためには、つまりみなさんが幸せに生きられる豊かな社会になるためには、一見するとその社会にとって異質とも考えられる障がい児(者)がいてくれることが必要なのだということです。反対から言えば田村の言葉は、同質性ばかりを求めることはこの社会をダメにしてしまうということを述べていることになるでしょう。

 今日、多様性の尊重ということが言われることが多くなりました。最近よく聞く「ダイバーシティ(diversity)」や「インクルージョン(inclusion)」といった言葉も糸賀や田村の考え方と関係していると考えることができるでしょう。

 話題は変わりますが、みなさんは人間が白目を発達させたのはなぜだと思いますか。白目があるとどこを見ているかがはっきりわかってしまいます。だとすれば、白目をもっていることは生物として生き残っていくのに不利に思われます。それでも人間が白目を発達させてきたとするならば、何か白目の長所があるはずです。それはコミュニケーションなのです。小さな子どもと関わるときは、姿勢を低くして目を合わせてコミュニケーションをとります。人間はコミュニケーションを何よりも大切にする動物だからこそ、眼差しが通い合っていることがはっきりとわかるように白目をもつようになったのです。

人間がコミュニケーションの動物であることは、今日では様々な研究分野で明らかにされています。教育学、心理学だけではなく、脳研究、遺伝子研究、文化人類学などでも人間が「つながり」を何よりも大切に進化してきた動物であることがわかってきているのです。

 人間を「コミュニケーションをとる動物」と定義づけてもいいように思います。人間が生理的欲求と同等以上に承認欲求を満たすことを求めるのも人間の本質と関わっている可能性が高いでしょう。みなさんもまた承認欲求を持っているのではないでしょうか。友達とつながっていると安心できるし、お互いの関係を確認するためにSNSを頻繁に利用することも多いのではないでしょうか。

(2)承認欲求の危険性

 ところが40年以上フリースクールにおいて、またスクールカウンセラーとして子どもと関わってきて、承認欲求を満たそうとすることには危険があるのではないかと思うようになりました。ひとつの例としてリストカットをしていた少女を取りあげたいと思います。その少女は勉強する意味がわからない、人は信用できないと訴えます。しかし彼女のテストの点はどの科目もほぼ100点という高得点だし、友達との関係も表面上はうまくいっているのです。部活でもレギュラーとして活躍していましたし、生徒会の活動もしています。いじめられているということもありません。それなのに勉強する意味が分からない、そして人は信用できないというのです。とくに友達については怖いと訴えるのです。

 皆さんはこうした少女のことが理解できるでしょうか。彼女は友達からも教師をはじめとする周囲の大人からも完璧に承認されています。それなのに、彼女は生きている意味が見いだせず、ようやく自分の身体を傷つけて生きている実感を得ているのです。なぜこんなことが起こるのでしょうか。

 彼女は他者の承認を得ようと一生懸命やってきたはずです。そして実際に他者の承認を得ていました。それなのに生きている実感が得られないといいます。そんなことがあるでしょうか。

 彼女とかかわってわかってきたことは、他者からの承認には危険があるということでした。他者の承認を得るためには承認されるべき自分にならなければなりません。他者に認められようと必死になって生きることになります。しかし、そのことで自ら他者に合わせなければならないという同調の気持ちを高めてしまうことになるのです。「嫌われて孤立したくない。だから自分の気持ちを押し殺して友達の気持ちを優先する」といった気持ちが強くなり、どんどん自分らしくなくなっていきます。同調圧力ということばがありますが、周囲から同調圧力がかかるだけではなく、自ら同調に身を投じてしまうのです。だが、それでは生きている実感が薄れていくのは当然です。自分らしく生きるという選択肢を自ら取らないように生きるのですから。

 この少女に限らず、不登校の子どもたちと関わっていると、多くの子どもたちが繊細で周囲の承認を強く求めていることに気づきます。以前不登校の一分類として「優等生の息切れ型」という言い方がありましたが、私から見ても本当に優しいいい子だなと思う多くの子どもたちと出会いました。それでも時にいい子であることに耐えられなくなる。他者に認めてほしいという承認欲求を求めすぎるのは危険なことなのです。「自分は自分でいいんだ」と思えるようになることが必要なのです。それでは、どうしたらそう思えるようになるのでしょうか。そのことを考える前に、学校とはどんな場所なのかについて考えてみたいと思います。

2. 学校という場所

(1)近代学校の意味

 学校はなんのためにあるのでしょうか。拙論では詳しく論じる必要はないと思いますが、一言で言えば近代化に貢献する人材養成を行うために存在するということになるでしょう。近代化に貢献できる人材を育てるためには、教師が組織的に子どもたちに知識を伝え、近代社会を生きる作法を教えるということになると思います。作法としては「頑張れば報われる」、「みんな仲良くしろ」といった価値観を浸透させるということもあったでしょう。

 とくに最近までは、ある意味ではこのような学校の機能はうまく働いていたと考えることもできるでしょう。「教育ママ」という言葉があったように家庭では子どもたちに多額の教育費を投じ、よい学校に入れるように努力します。そしてよい学校を卒業すればよい企業に一括採用してもらえる。企業は年功序列の安定雇用だったために、父親は安定して稼ぐことができ、その稼ぎを家庭に持ち帰り、そしてその稼ぎが子どもの教育に使われる。こうした循環はうまくいっていたのです。教育はこの循環をうまく回すために機能させられることになります。そこでは教育の課題は「いい成績をとり、いい学校に入り、いい企業に入って、よい生活をする」ことだということになります。「学ぶっておもしろいな」といった内発的動機より「将来いい生活ができるように、今は頑張る」という外発的動機付けによって教育が動かされるようになっていきます。

 私は研究のなかで、社会がこのような考え方に支配されることは、いいことばかりではないことに気づきます。こうした循環が繰り返される中で、社会は同質化し、内に対しては強い凝集性をもちながら、外の異質性には閉ざしていくような傾向が強まっていきます。強い循環であればあるほど、その循環にとって異質なものはこの循環から排除されていきます。そして社会全体が同調圧力で支配されるようになります。

 そう考えると、上記で述べたリストカットする少女は、治療されるべき問題少女として理解できる存在なのではなく、この社会の課題を示してくれているありがたい存在だということになるでしょう。私の研究は、フリースクールでの子どもたちとのかかわりやスクールカウンセラーとしての経験をとおして、子どもたちの様々な行動の意味を理解し、そこから新しい教育の在り方を探るということなのですが、その際ずっと大切にしてきたことは、リストカットや不登校といった子どもの行動を問題行動としてとらえるのではなく、彼らから私たちが学ぶことは何なのだろうかと考えることでした。そう考えると、高校生のときカマラとアマラの物語をとおして考えたことと、あるいは大学生のときに読んだ糸賀と結局は同じことを考えてきたのにすぎないことに気づきます。私は何十年もバカの一つ覚えで同じことを考えてきたのです。

 もう少し学問的に話をしてみましょう。同調的な教育観が強くなると同時に、さまざまな弊害も生じてきました。私がずっと研究してきた「不登校」は、その一つの例、あるいは先駆けだと考えることができると思います。先ほど教育ママの話をしましたが、家庭も競争としての教育の一環のなかに呑み込まれてしまって、本当の意味での親密性の場でなくなってしまいます。詳しくは述べられませんが、家庭の変質を示す一つの事件が1980年の「金属バット両親殺害事件」です。ちょうど私が不登校の子どもたちと関わり始めるころに起きた事件です。あるいは2008年におきた「秋葉原通り魔事件」や2018年に起きた「滋賀医科大学母親殺傷事件」も家族の難しさを示す事件と言えるでしょう。そして今日、社会からの親密性の喪失は先駆けであることを超えて、家庭や地域を含む社会の大きな課題として現れてきているように思います。

(2)厳しい校則や体罰とは何だったのか

 私の研究の中心であった学校に目を向けてみましょう。古いものですが、一つの出来事を挙げてみたいと思います。

 小学校2年生の少女の話です。その学校では、子どもたちに給食をすべて食べさせることを目標に立てました。食べ物を捨ててしまうのはもったいないし、栄養をきちんととることは身体の発達にも良いことだからです。しかしその少女は少食でなかなかすべてを食べきれなかったのです。担任の先生は休み時間にも完食するまで食べ続けることを求めました。だが休み時間になって一人で食べ続けることは、周囲が気になる繊細な少女にとっては大変なことです。また子どもたちは教室内でバタバタ走り回り埃を巻き上げるので、神経質な女の子にとってはその点もつらかったのです。それでも一生懸命食べようと食べ物を口に運びます。ある日、とうとう彼女は食べた物を戻してしまいます。このときみなさんが担任だったらどうするでしょうか。何と、その担任はその次の日も同じルールをその少女に押しつけたのです。その結果、少女は学校に行こうとするとお腹が痛くなるようになってしまい、不登校になってしまいます。

 学校は教育の場ですし、すでに述べたように学校が近代社会を生きるための躾を行う場としての役割を持っているということも事実です。でもだからこそ、子どもの世界を子どもの側から理解する専門性が教師には求められるはずです。こうした専門性がないと教育はどんどん子どもの幸せから遠ざかってしまうからです。ところがカマラを教育が必要な対象としてしか理解できなかった私の高校生の頃と同様、子どもの立場を理解しようとしない教師が今日でも存在するのです。他者の世界を他者の側から理解することを「共感的理解」と言いますが、教師は「共感的理解」の専門家でもなければいけないのだと思います。ところが、上記の例からわかることは、教師が社会の都合、教師側の都合ばかりを優先して社会の価値観を子どもたちに押しつける存在に成り下がってしまうことがあるということです。一時期学校が非常に厳しい校則で子どもたちを縛り付けようとしていたことや法律(学校教育法第11条)で禁止されている体罰が行われ続けていたことは、教育に内在する「押しつけがましさ」の例だと考えることもできるでしょう5

 そう考えてみると、校則や体罰の背景に大きな学校組織の課題があることに気づきます。体罰を失くすことは大切なことですが、根本的には、学校組織の在り方を変えなければならないのです。

(3)どんな教師が望まれるのでしょうか

 多くの教師は、子どもたちを一生懸命理解しようとし、毎日努力をしています。スクールカウンセラーなどで訪れた学校で教師の様子を見ていて頭が下がることも多々あります。私にはできないなあと思ったりします。

 しかし時々「あれっ」と思う教師と出会うことがあります。スクールカウンセラーをやっていると先生の悪口を言う子どもに出会うこともあります。子どもたちは「えこひいきをする教師」や「言っていることとやっていることが違う教師」を嫌います。こうした教師は子どもたちに寄り添おうとしないからです。

こういう教師は自分の言うことをよくきく子どもが好きです。そうした子どもは大切にされます。そして教師自身の考えで学級のすべてを動かそうとするのです。こうした同質化を目指した学級は学級王国と呼ばれたりしますが、同質的集団はいじめの温床になるのです。また同質的集団においては、相互に相手のことばを、そして存在を聴きあうことが苦手です。

もちろん、すでに述べたように、教師のすべてがそういう教師だということではありません。校長先生になっても休み時間は子どもたちと一緒に遊び、また子どもたちを校長室に招き入れて、彼らの思いを一生懸命受け止めようとする先生もいます。私はそうした学校の姿に出会うとほっとします。それでは子どもに寄り添える先生がたを増やしていくにはどうしたらいいのでしょうか。

心理学にダークトライアドという概念があります。ここでは詳しくは論じられないのでみなさんで調べてみてほしいのですが、ナルシシズム、マキアヴェリズム、サイコパシーの三つの特徴をもった人のことです。権力欲の塊で、共感性がなく攻撃性の強い人のことです。彼らは一見親分子分の関係を築くので集団主義者に見えますが、実際には自分のことしか考えないエゴイスティックな人です。もちろん社会にこうした人が一定の割合で存在することは仕方ないように思います。問題は、こうした人が社会から排除されずむしろ実際に権力を握ってしまうことなのです。こうした権力者の周囲にはその権力に迎合する人、そして傍観してしまう人たちの集団があるのです。これもここでは詳しく述べられませんが、ぜひアイヒマン6実験のことを調べてみてください。人は権力者のいうことには従ってしまう傾向があるのです。そして学校という場は、これまで述べてきたようにもともとその成り立ちから権力的になりやすい構造を持っていて、その構造が教師―子どもの関係だけではなく教師の同僚性のなかにも入り込んできやすいと考えています。私がいま研究したいと思っていることはこうし教師同士が対等な対話を行うことができる学校を作るにはどうしたらいいのかといったことです。

3. これからの学校を考える

(1)対話を学校に取り戻すこと

 私はフリースクールの子どもたちの研究をとおして、不登校を減らすためには、こうした同質化傾向を壊していく必要があるのではないかと考えるようになりました。そして子供たちの同質化傾向を乗り越えていくためには、教師側の同質化傾向を壊していく必要があるのではないかと考えるようになりました。教師集団のなかに親分・子分の同質化傾向が根強くあるにも関わらず、子どもと教師の対等性が保証され、また子どもという存在の異質性が大切にされるということはあり得ないのではないかと考えるようになりました。

このことは私にとって経験的に確かなことと思われることでしたが、同時にオープンダイアローグとの出会いから確信をもって言えるのではないかと思うようになりました。オープンダイアローグはフィンランドで始まった統合失調症7の治療方法です。医師や看護師、福祉関係者、患者、患者の家族、患者にとっての重要な他者が一同、一つの場に集まって、対話を行うことで患者が立ち直っていくという治療法です。対話をすることが大切なのであって、そこで早急に一つの結論(治療方針)を出す必要はありません。対話をすること自身が人を元気にするというのです。オープンダイアローグで重視しなければならないことは、対等性と異質性です。医者も患者もみな対等な関係で対話に臨みます。治療方針もすべて患者の前で話し合われます。また互いの立場の違い、異質性も大切にされます。こうした対等性と異質性に拓かれた対話を繰り返すことによって患者は日常生活に復帰できるようになっていきます。

こうしたオープンダイアローグの成果は私のこれまでの研究からしても理解できることでした。不登校の子どもたちに取り戻さなければいけないことは、単に学力ではなく人間への信頼でしたし、他者との信頼関係を取り戻せた子どもたちは社会に出て行かれるのだという経験をしたからです。フリースクールで私が目指したのは、それまで彼らが経験してきたコミュニケーションの断絶とは異なる物語を子どもたちと一緒に創っていくことでした。そしてそのことは、人間存在の本質が「つながり」にあるとするならば、不思議なことでも何でもない当たり前のことなのです。だが、人間にはこれまで述べてきたようにエゴがあり、権力欲や自己中心性がこの「つながり」を喪失させる方向に働くのです。そして学校もその例外ではないし、むしろ学校こそ権力が入り込みやすい場所なのです。

(2)対話の場としての学校

 学校を対話の場にすること、そのためにはどうしたらいいのか、私はそれをこれから研究したいと思っています。授業を対話の場にすること、学級経営に対話を取り入れることは教育方法の工夫でできそうです。しかし、対話が単なる方法にとどまっている限り、学校を真の対話の場にすることはできないように思います。学校を対話の場にするためには、教師集団に対等性と異質性に開かれた対話の場を成立させることが必要なのです。

 難しいなと思います。教師のなかには「自分たちは公務員なのだから教育政策に従うのが仕事だ」とか「今日の教育政策はよく考えられているので、教育政策にしたがって実践をやっていれば教育はよくなる」という人もいますし、「偉くなりたいから勉強している」という人さえもいるからです。そして親分子分の関係の強い集団では、子分にならないと排除されたり、露骨に攻撃されたりするということも起きます。黙ってしまったほうが得なのです。そうした教師はおかしいなと思いながらも、主体的に発言することをあきらめてしまいます。

 それでも何とかしてこうした状況を変えられたらと思います。はじめから教師としての主体性を持てないとしても対話的空間が成立していれば、そのなかで親分子分の閉鎖的関係に負けない主体性を育むことができるようにも思います。そのなかで学校を仲間の親密性を高める場とすることも可能になって行くのではないでしょうか。その第一歩としてまずは学校内外に他の教師と本音で語る場を作りだしていくことが大切なのだと思います。本音で語るためには、建前から自由になることも求められるでしょう。

おわりに

 現在、「居場所としての学校」ということが言われています。だがこれまでの考え方からすると、子どもたちにとって居場所を学校にするためには、教師にとっても学校を居場所にする必要があるかと思います。

 みなさんとこれからの学校について一緒に考えることができたらうれしいです。学校はブラック企業だといわれています。もちろん今回は触れられませんでしたが、教師の仕事を思い切って減らすことは必要です。だが、学校が教師にとって仲間と語り合える場になれば負担は減らなくても負担感は減ると思います。さらに教師にとっても学校を居場所にしていくという発想をもてば、これまでのように学校の建前が前面に出ることも減って、教師の仕事を減らすことにもつながっていくでしょう。

 そしてまた学校が変わることによって、その考え方を家庭や地域に広げていくことができるかもしれません。学習指導要領や学力論について考えるのも教育学部の存在の目的でしょうが、「居場所としての学校」を考えるのも教育学部の目的なのです。

[1] 詳しくはJ.A.L.シング、『狼に育てられた子』(1977、福村出版)。私がこの物語を知った時にはこの物語は真実だと思われていましたが、今日ではその信憑性は疑われています。しかし、物語としてどう受け止めるべきかという問いは、必ずしもその真実性とかかわらないと思います。

[2] 当時は養護学校と呼ばれていました。

[3] 糸賀一雄『この子らを世の光に近江学園二十年の願い』(2003NHK出版)

[4] 田村一二『ぜんざいには塩がいる』(1980、粕樹社)

[5] 最近では、校則を子どもたちの意見を取り入れて、あるいは子どもたちが主体的に決めるような学校も増えてきました。そのこと自体はとても良いことだと思います。ただ問題は校則だけ変えればいいということではないことだと思います。

[6] アイヒマン実験について調べるついでにアイヒマンその人についても調べてみると面白いかもしれません。アイヒマンについてはハンナアーレント『エルサレムのアイヒマン』(2017、みすず書房)で詳しく論じられています。

[7] 統合失調症は精神病の一つです。

Profile

茨城大学教育学部特任教授 生越 達 (おごせとおる)

1960年生まれ。84年東京大学法学部卒業、86年東京大学教育学部卒業、92年東京大学大学院教育学研究科博士課程単位取得退学。2004年より茨城大学教育学部教授。14~18年教育学部長。25年より特任教授。専門は教育方法学で、茨城県内でスクールカウンセラーも務めている。

「教育を問い続けること」生越 達
茨城大学教育学部ウェブマガジン創刊号、p.1-6:令和7年(2025年)3月14日公開

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