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[人文社会科学の書棚から]
中田 潤教授『ドイツ「緑の党」史 ―価値保守主義・左派オルタナティブ・共同主義的市民社会―』

 人文社会科学部の学問について、教員が新たに刊行した書籍に関するインタビューを通じて紹介する不定期配信のシリーズ第12回です。今回は20239月に刊行された人文社会科学部教授中田潤(なかた じゅん)先生(ヨーロッパ史)の著書『ドイツ「緑の党」史』を取り上げます。インタビュアーは人文社会科学部教授の高橋修先生(日本古代中世史)です。同教授佐々木啓先生(日本近現代史)・同准教授森下嘉之先生(ヨーロッパ史)にも加わっていただきました。なおインタビューは、2024215日に、人文社会科学部棟の中田潤研究室で行われました。
(企画・構成:茨城大学人文社会科学部

高橋 めっちゃ緑の本ですね。インパクトがあります。ベタな感じが良いです。デザインは即決でしたか。

中田 出版社の提案は3案くらいありましたが、これにすぐ決めました。学術書の表紙としてはインパクトがありすぎるのかなと思ったのですが、よく考えると日本のハードカバーの書籍は、その上に取り外し可能なカバーがついています。外側のカバーの方は書店で手に取っていただく時、目立った方が良いと考えこれにしました。図書館の書架に並んでいる時は、このカバーは外されているはずなので、もう少しおとなしい印象になっているはずです。

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高橋 まず中田先生とドイツ史研究との出会いあたりから聞かせてください。

中田 1990年代初頭に、博士課程の学生として結構長い期間ドイツに留学していました。基本的には博士論文執筆のために研究にいそしむ毎日ではあったのですが、当然のことながらドイツの人々と交流する機会もあったわけです。ドイツで生活するうちに、同時代の日本の社会のあり方とは根本的に違う部分があることを次第に意識するようになりました。それは端的に言ってしまえば、国家や行政から自律した住民同士のネットワークの存在であり、またその強さが日本と比較した時、際立っているという点でした。 

高橋 政治ではなく、コミュニティなんですね。このあたりは本書の中でも、興味深いアプローチがみられます。それは後ほどおうかがいしますが。

中田 住民同士のネットワークというのは、やや専門的な言い方をすれば住民の中に社会的連帯の精神が深く根付いており、そうした精神に基づいて人々の連帯が実現しているという状態を指します。
 実はこの社会的連帯は、ドイツを含めた西ヨーロッパの人々の意識の中で大きな役割を占めているというだけでなく、この地域の国家そのものの存在理由を規定するものにすらなっています。例えばフランス政府が発行する資料や公共施設で良く見かけるリベルテ(Liberté)・エガリテ(Égalité)・フラテルニテ(Fraternité)という標語があります。3番目のフラテルニテという言葉は、「他者との連帯」と訳すことができます。つまりたった3つの単語でフランスという国を表現しようとした時、その一つとして社会的連帯の語が採用されているわけです。
 またドイツ連邦共和国の事実上の憲法にあたる基本法の第20条には、「ドイツ連邦共和国は民主的かつ社会的(sozial)な共和国である」という条文が存在します。実はこのsozialという語は、「社会」と日本語に訳した時には失われてしまう「他者との連帯」という意味を持っています。つまりこの条項では、ドイツとは他者との連帯の上に成り立つ国家であることが謳われているのです。

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中田 潤先生

高橋 なるほど。ところで中田先生と私はほぼ同じ世代ですが、緑の党が勢力をもち始める1980年前後は15歳くらいで、そろそろ政治って何だろうとか思い始める年代ですよね。私もヨーロッパには環境保護を第一に掲げる政党もあるんだな、くらいの認識はあった気がします。

中田 ご質問の主旨は、なぜこの著書では、1970〜80年代という時代をとりあげたのか、と理解しました。それは私が、というか西ヨーロッパないしアメリカ合衆国を対象とする研究者の多くが、この時代を同時代史の始まりと理解しているからです。どのようなメルクマールを設定するかによって、その開始点は変化してくるということは含みおきながらも、私たちが生きている「今」という時代の枠組みが成立した時期を私は1960年代から1970年代頃と考えています。それはドイツの通史研究や教科書が、この時期をドイツ連邦共和国「第二の建国期」として取り扱っていることからも、定説化していると言えます。こうした社会の変革期の歴史的意味を今一度考えるためにこの著書を執筆してみました。

高橋 ではそろそろ本書の内容に沿って議論しましょう。まず緑の党とは何か、わかりやすく説明してください。

中田 先にも触れたように、私は1970年代をドイツ社会において静かではあったものの、極めて大きな不可逆的な変化が生じていた時期であると考えています。こうした変化は、ドイツでは社会のレベルに留まらず、その変化をすくいあげる形で、政治空間の変化をも引き起こすことになります。それが具現化したものが1980年に結成されたドイツ緑の党でした。
 1970年代中頃から、人々の価値観の変化に対応する形で、ドイツではビュルガー・イニシアティーベと呼ばれる、市民のネットワークを基礎に置いた社会運動組織が爆発的に増加します。こうした運動は、それまでの社会運動と区別するために一般的に「新しい社会運動」と呼ばれます。これらの運動によって提起されたのは、女性やLGBTQ、そしてドイツ在住の移民・外国人の権利の問題、GNPによって測られる生産力至上主義的な開発主義への批判などでした。さらにそれと対になる形で自然を積極的に保護していく必要性の主張、妊娠中絶における医師、都市計画の策定における官僚、そして原子力政策における技術者などに代表されるような、問題の当事者を置き去りにした「専門家支配」という現状への批判なども提起されました。こうした運動の一部は、運動をより効果的に展開するために、政党化という道を進み始める。それを具現化したものが緑の党でした。こうした社会運動をその前身とするという経緯により、緑の党が掲げる政策は上記のような社会運動が掲げてきたものの実現を目指すというものになります。

高橋 環境が人権のベースになる、そうした考えや主張の起点はドイツと考えてよいですか。

中田 他の地域、とりわけヨーロッパの他の国との比較において、なぜドイツにおいて緑の党がここまで大きな影響力をもつことができたのか、という問いを考えた時、それにはいくつかの複合的な要因が重なっていました。ここではあえて社会史的視点と関連する要因をあげておきたいと思います。それはドイツの人々のライフスタイルです。ドイツでは大都市への人口の一極集中が進まないような歴史的伝統があったため、多くの人々にとって住居の比較的近いところに豊かな自然が存在しています。彼らの多くはその近隣の自然の中で余暇時間を過ごすことを好みます。富裕層は、都市周辺部の自然が豊かな地域に好んで邸宅を構える傾向が見られるのですが、これもそうした嗜好を裏付けていると言えます。この田園地帯への居住と自然への特別な思い入れというのは、実はドイツの社会的上層の歴史的特徴と言えるものですらありました。
 社会的上層のライフスタイルが、それ以外の人々のライフスタイルに対してある種の規範効果を持つことは、歴史学の一般的な常識だと思うのですが、まさにこの自然への思い入れは、こうしたドイツのその他の人々の意識をも強く規定するものになっています。原子力発電所は、一般的に人口密度の低い地域に立地されますが、そうした施設は多くの場合、こうした自然に土足で入り込んできたように見えたわけです。ゴアレーベンの再処理施設建設に対する全社会的ともいえる反対運動は、例えばこうした文脈から理解できると思います。というのもゴアレーベンは、ベルリンとハンブルクという2つの大都市の丁度中間に位置し、芸術家・著名人などを含む都市生活者・二地域居住者の憩いの場として大変人気のある場所であったからです。

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高橋 市民運動が政治に近づく時、当然軋轢もありますよね。政治的フレーミングに対する反発ですね。

中田 この問題については私も強い関心を持っていたので、インタビューを含めて多くの史料にあたりました。緑の運動に積極的に携わった人々は、先に述べたような新たな社会的課題に対して既成政党が関心を示さない、ないしは無策であることに対する反発から市民運動を展開していたわけです。それにもかかわらず、この市民運動の内側から政党が成立してきたことに対して、まさに運動が乗っ取られたという感覚を抱いた人は少なからずいました。インタビューさせて頂いた方の中にも、率直にその感覚を述べてくださった方もいらっしゃいました。
 しかしながら、当局との対決姿勢が前面に出がちな日本の社会運動の文化との相違も指摘しておく必要があるような気がします。補完性原則という名称で日本に紹介されているようですが、ドイツでは地域の運営は基本的にその地域の市民社会に委ね、行政は、その市民社会がより円滑に機能するように、財政その他の面でバックアップすることに主眼を置く傾向があります。それは日本と比較した時に、実は行政運営上のコストの面でも優位性があります。そこには、実はドイツの地方自治の歴史が刻み込まれています。ドイツ、正確にはプロイセンでは、ナポレオン戦争後のいわゆるプロイセン改革の一環として都市条例というものが発布されていました。これは簡単に言ってしまえば、地域社会において存在していた市民(ブルジョワ)層による自治状態を正式のプロイセン国家の地方行政として追認していくというものでした。ここに市民社会による自治と国家の側のそれへの協力・共生という補完性原則の歴史が成立することになります。強い市民社会の存在を前提に、ドイツでは行政対市民運動という、日本でイメージされがちな対立という構図に陥らないような伝統も一方で存在しているわけです。

高橋 1979年に、緑の党はヨーロッパ議会で単一政党として成立します。それぞれの母体をもつ運動が一つの政党を形づくるのって、けっこう難しいことではないですか。日本にみえてくるのも、このタイミングではないですか。

中田 著作の中でも述べたように、1980年代末までの緑の党の歴史は、政治的背景の異なる多様な組織・集団のごった煮状態でした。それは党中央が事実上機能していない、州のレベルでかろうじて組織的一体性を持つ地域政党の連合体であったというのが実態に近いと考えています。
高橋先生のご質問の意図とはちょっとずれるかもしれませんが、緑の党の歴史を考える上で、マス・メディアが果たした役割という点について意識しなくてはならないと思います。現在においてこそ、ジャーナリズムやマス・メディアの政治に果たす役割というものは当然すぎるものなのかもしれませんが、緑の党は自らの影響力の拡大のために意識的にかつ積極的にマス・メディア、とりわけテレビを利用した政党でした。例えば、反原発運動に対して警察の実力行使が予想される時には、積極的にその情報を報道機関にリークして、テレビ放送を通してその実力行使の是非を国民に考えてもらうような政策をとっていました。
 そうしたメディア時代の政党である緑の党の申し子と言えるような人物が、この時期登場してきます。それがペトラ・ケリーでした。彼女は党を内側から見たとき、必ずしも中心的な役割を果たした人物とは言えませんでしたが、メディアでの破格の取り扱われ方によって、この時期党の顔となっていきます。彼女は1976年に広島での平和行進に参加するために来日しており、それにより、やはりマス・メディアを通した形でドイツの緑の運動が日本でも認識されるようになったといえます。彼女はその後に謎の死を遂げるのですが、機会があったらその問題を含め、彼女の評伝を執筆してみたいと考えています。

高橋 第7章の、緑の党の支持者の構成についての論証がとても印象に残りました。特に支持母体としての、日常的な生活に密着したコミュニティの役割です。

中田 現代のアトム化した日本の地域社会に生きる者にとって、日常的な生活に密着したコミュニティがそのまま特定の政治運動の支持母体へと発展していくという例をイメージすることは確かに難しいかもしれません。しかしながらドイツにおいては、著作の中でも触れたように、学生同士が家賃を節約するために共同居住をオーガナイズしたり、人生の様々なステージでネットワークを形成するにいたった知人同士で小規模な集合住宅の建設を計画して、共にそこに居住するといった例はそれほど突飛なものではありません。それが政治的なものへと発展するか、しないかは別として、先にも述べたように血縁関係を越えた自律的な社会的ネットワークが今日なお広く存在しています。緑の党の成立は、こうしたネットワークに乗っかって展開した一つの事例に過ぎないと考えています。
 太陽光やバイオマス、そして風力発電といった再生可能エネルギーの生産を個人の規模を越えた組織の形態で実現しようとしたとき、ドイツでは実にその約40%近くがエネルギー協同組合による運営であるというデータがあります。エネルギー協同組合というのは、事実上は上記の住民によるネットワークを体現したものです。こうした事業の圧倒的多数が企業によって実施される日本との比較において、住民ネットワークに基づく市民社会の強さには驚かされます。

画像4.jpg 左、佐々木 啓先生

佐々木 私も現代史研究において、オーラルな資料を重視していますが、町に入って、こんなに細かく調べたことはありません。データはどうやって集めたのでしょうか。

森下 そこに到達するまでのコミュニケーションがすごいと思います。

中田 こうしたネットワークの存在を追いかけていく出発点は、ニーダーザクセン州立文書館で発見した選挙人名簿でした。ドイツの(当時の)選挙法では、候補者が選挙に立候補するためには、自らの選挙区に居住する有権者からの推薦を一定数集める必要がありました。この有権者は同時に複数の政党に対して推薦を行うことは認められていません。またこの推薦リストには、氏名と年齢そして住所が直筆で記載されていました。このリスト掲載者は、上記に挙げたような条件から、緑の党(厳密に言えばその前身)のコアな支持者という性格づけが可能であろうという推測の下、その住所を地図に落とし込みながら、必要に応じて現地での聞き取りも行ってみました。それに基づき第7章で述べたような結論に到達しました。

佐々木  どうやって入手したんですか。公開されているのでしょうか。

中田 確かにこうした選挙人名簿は、名簿を提出された側、つまりニーダーザクセン州に対して閲覧を請求した場合、個人情報保護の観点から許可がおりないのではないかと想像します。しかしながら私が閲覧したのは、名簿を提出した側、つまり緑の党が選挙管理委員会に提出したもの控えでした。現在の緑の党ニーダーザクセン州支部と連絡をとったところ、閲覧許可がおりました。これは私にとって幸運でした。

高橋 エコロジーの運動が、スピリチュアルなものと一体化し、それは国家主義さらにはナチズムと相性がよいという指摘もありました。緑の党の動向に即して説明するとどういうことになるでしょうか。

中田 緑の運動とスピリチュアリズムや国粋主義、そしてナチズムとの親和性という議論は、すでに緑の結党時点で党の内外で激しく議論されたテーマの一つでした。日本では、当時のドイツ社会民主党のあり方に不満をもった人々によって緑の党が結成された面が強調され、緑の党を左派政党として認識する傾向があります。そうした観点からのみ緑の党を見ると、国粋主義やナチズムと緑の党の類似性という問題提起は奇妙に感じられるでしょう。しかしながら実際には、とりわけ初期の局面では価値保守主義者と呼ばれる、穏健主義・保守主義的な傾向を持った人々が、緑の党内で大きな影響力を持っていました。そしてその一部には、ナチズム体制に深く関与していた人々も存在していました。
 しかしながらドイツ近代史における経済成長至上主義・開発主義批判の思想はもっと根深いものがあり、労働運動・社会民主党史の中にもそうした側面はすでに19世紀末から存在していました。またナチズムがそうした思想を内包させていたことも否定できません。しかしながらこうした文明批判とも呼べる思想は、ナチズムよりもはるかに長い歴史を持ち、また社会的にも広い影響力を持つものでした。むしろナチズムの側がその思想の一部を取り込んだというのが実態に近いと言えます。その意味で、ナチズム思想と緑の党を単線的に結び付けるような主張は、今日ではもはや学問的には維持できないものになっています。

森下 私から、二つ質問があります。一つ目は、左派オルタナティブが緑の党のおおよそのイメージとして認識されることが多いように思っていたのですが、この本ではそれだけではないことを実証しています。日本ではなぜ左派のイメージだけで語られることになったのでしょうか。

中田 時期的に見ると、日本ではジャーナリズムの方が学術研究よりも先にドイツの緑の党に注目してきました。そこには左からの社会変革の可能性という日本的事情に基づいた願望もあったような気がします。そうした文脈でメディアによって、先に述べた緑の党の左派的性格というのが強調されたような気がしています。ただ一点補足しておけば、本書でも取り扱ったように1980年代後半から末にかけての時期においては、党内において左派がかなりの影響力を持っていたということも事実として指摘できると思います。

森下 二つ目は、東京で議論していても見えないが、茨城のような地域/地方では見えてくるような市民社会の在り方を感じました。

中田 森下先生が指摘されるように、確かに私の問題意識の根っこには、地方からの目線というものがあると思います。外国の方と話しているといつも感じるのですが、彼らの日本に対するイメージというのは、多くの場合東京についてのイメージなのですね。 それは発信する側にも問題があるのではないかと考えています。日本における情報の多くが大都市の目線から発信されている。ここで言いたいのは地理的な意味ではなく、世界観の問題なので、物理的には地方から発信された情報であるにも関わらず、目線としては大都市からのものであるということは十分にあり得ることです。学術研究はとりわけこの傾向が顕著な気がしており、ヨーロッパ史研究なんかは、そもそも研究者の分母が圧倒的に小さいので、そうした傾向は余計強い。しかしながら、地方からの目線で議論を組み立ててきたときに、こうした日本の大都市目線からは見えないものを多く提起できると考えています。その点について本書を読んで気付いて頂けたなら著者として本望です。

画像5.jpgのサムネイル画像 右、森下 嘉之先生

佐々木 本書は緑の党に集った様々な勢力の派閥抗争の歴史という側面を持っていると思いますが、政党論としてはどうなるでしょうか。多彩な勢力が一つの党に集っていることの意義とは何だったのでしょう。

中田 1960〜1970年代という時期に先進国の社会は、質的な意味で大きな変化を経験したと考えています。その変化とハイポリティックスとしての政党システムとの間の齟齬によって生じた緊張関係が緑の党という政党の活動にダイナミズムを与えていたと暫定的に結論づけてみました。この緊張関係は1990年代以降、一方で緑の党の既存の政治システムへの適応と、他方でドイツの多数派社会の側が緑の党によってこの時期に提起された社会的課題を認識・受容していくことによって緩和していくことになります。その意味で今日の緑の党は「普通の政党」になったという評価は妥当であると思います。またそうした党のあり方に満足しなかった人々が運動へと回帰していったこともわかっています。

佐々木 本書で緑の党を論じる際のキー概念として、協同主義という概念があります。緑の党が協同主義的な性格を弱めることで、緑の党の役割は終わった、という理解になるのでしょうか。また、日本の場合、協同主義はしばしば排外主義・国粋主義的な理念と親和性を持つことがあったと思います。その点はドイツの場合だといかがですか。

中田 協同主義と(新)自由主義の拮抗関係という雨宮昭一さんが主張するメタレベルでの歴史観を参考にしながら、緑の党は協同主義的な社会秩序観を持つ諸勢力の寄り合い所帯である、という位置付けを本書ではしたつもりでした。社会には新自由主義的な社会秩序では包摂し得ない部分は常に存在し続けるし、新自由主義的な社会秩序が貫徹すればするほど、そうした包摂されないものの声は大きくなってくると考えています。その意味で協同主義的な社会を求める声は存在し続けると言えるでしょうが、こうした声を拾う勢力として緑の党があり続けるのかというのは別の問題であるように思います。
 また佐々木先生が指摘されたように、協同主義というのは、その結集軸に排外主義・国粋主義を据えることは十分にあり得ることです。そこで協同主義というメタ概念を提起するとき、人々を協同・連帯させる価値体系の議論は不可欠であると考えています。

高橋 そろそろ時間が無くなってきました。最後に、論文集として本書をまとめ終えて、次はどんな研究展望を持っているか、聞かせてください。

中田 本書では、初期の緑の党に結集したもう一つの大きな勢力であった「左派オルタナタティブ」については、積み残した部分が沢山あると認識しています。とりあえずそこを解明する作業が次の課題であると考えています。また本研究はヨーロッパにおける市民社会の実像を描くことを一つの目的としたわけですが、これは日本の市民社会のあり方を考える一つの材料を提供できると考えています。茨城大学を一つの例にとっても地域に開かれた大学と自己規定しながらも、その際の「地域」として目が向けられているのは企業と行政ばかり。そこには市民社会が存在しない。こうした大学の地域との関わり方は、まさに日本の市民社会の実情を如実に表していると思います。他方でドイツ(の行政)が地域活性化のための最大の資源として市民社会の持つエネルギーの活用を考えている点は示唆に富むと思います。こうした観点に立った日独地域社会比較研究などにも関心を持っています。

高橋 中田先生、そして佐々木先生、森下先生、本日はたいへん勉強になりました。ありがとうございました。

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(中田潤『ドイツ「緑の党」史』吉田書店、5200円+税、2023年9月刊)

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