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探究心から後輩たちのために教科書を自費出版した話
―理工学研究科M1・田村健人さんが書いた文書作成システムLaTeXの入門書

 このほど水戸・日立・阿見の各図書館に、複雑な数式などを含む文書作成によく使われるシステム「LaTeX(ラテフ)」の新しい教科書が収められました。『本業に専念したい人のLaTeX2ε入門』というタイトルのこの教科書の著者は、田村健人さん。茨城大学大学院理工学研究科博士前期課程1年次の大学院生です。「茨大の友達や後輩たちに使ってほしい」という思いで自費出版したというこの教科書。田村さんの話からは、探究と表現に対する田村さんの誠実さと、学生たちが自主的に学び、高めあうコミュニティの端緒が見えました。

(取材・文:山崎一希(茨城大学広報室))

 LaTeX(ラテフ)という文書作成システム。特に理系分野の学生のみなさんはレポートや論文の作成で使う機会があると思います。Wordのような一般の文書作成ソフトでは表現しづらい数式や化学式が入った文書を、コマンドを使うことで整った体裁で書くことができるシステムです。

 「教育学部の数学選修ではLaTeXの使い方を講義で学ぶ機会もあるそうですが、工学部ではLaTeXを学ぶ講義はなくて、みんな研究室に入ってから先生、先輩たちに教えてもらったり、独学で習得したりしているんです」。そう語る田村健人さんは、茨城大学大学院理工学研究科博士前期課程の1年生。今回彼が出版したB5判・121ページの教科書の本文も、LaTeXで書かれたものです。

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 後述するとおり、以前から趣味でLaTeXを使っていた田村さんは、友人たちからLaTeXの使い方を教えてほしいと頼まれることも多く、その都度丁寧に手ほどきをしていたそう。やがて補足資料も作るようになり、「それがこの教科書の原型になっています」と話します。

 とはいえ、困っている友達をサポートすることと、自費出版で教科書を作ってしまうことの間には、大きな段差があるのではないでしょうか。補助資料の手渡しからサポートの輪を広げるとしても、本の出版までしなくても、たとえばブログやnoteのようなオンラインメディアを利用する手もありそうですが、どうしてわざわざ「本」という媒体を選んだのか--それには「前段」の話がありました。

 田村さんがカバンから取り出したのは、「数学探究」という表題とシロクマの写真が表紙にプリントされた、白いB5判の本。「今回の教科書の前に、こういう数学の本を作っていたんですよ」。
 パラパラとめくってみると、あるページには、「数学考察No.7 地球儀の舟形図形の正体」というタイトルに、地球儀を平面で表すときに使う舟形の図形をグラフと数式で表現したという考察が記されていました。

03_self_publish田村さんが作った『数学探究』

 「もともと数学が好きで、大学入学前から自分で気になったことを考え、まとめていたんです。これも地理の教科書を見ているときに、この地球儀の船形図形って数式で表せるんじゃないかなって思って、実際にやってみたらうまくいったんです。そうやって生活の中でネタを探して、分からないことは先生に相談したりもしながら、考察をノートにまとめていたんです」

 高等学校の教育課程には最近「理数探究」という科目ができたのですが、田村さんはそのずっと前から、「好き」に導かれるようにコツコツと探究に取り組んでいたのです。
 茨城県出身で、2019年に茨城大学工学部に入学。20204月、日立キャンパスでの学生生活が始まろうというときにコロナ禍で全面オンライン講義となり、在宅の時間が増えました。
 「急に時間ができたので、自分の探究をまとめておこうと思い、LaTeXで作り始めたんです。ノートに書いたままだとなくなっちゃうから、ちゃんと本にして残しておきたいなと思って。インターネットで安く製本をしてくれる印刷会社を探して、とりあえず67冊ぐらい作ったのが始まりです」。

 最初の発行は2020年。これをお世話になった先生に渡したら、思いのほか喜んでもらえたといいます。田村さんの「数学探究」はその後少しずつ増補を重ね、20226月に作ったのが「バージョン3」。そう、田村さんにとっては、探究すること・LaTeXで表現すること・本という形にすること・それを身近な人に手渡すことが、ひとつにつながっているのです。

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 そう考えれば、友人たちへのLaTeXの手ほどきから出発して「教科書」という紙媒体の制作へと至ったのも理解できます。とはいえ、自分の趣味の記録としての「数学探究」とは違い、他の人がそれを使って正しく学べるような「教科書」を作るとなれば、その内容には自ずと大きな責任が伴ってきます。自分だけに役立つような内容構成ではいけません。
 そこで田村さんは、世に出ているLaTeXのテキストをかき集め、それらに目を通すことから始めたそうです。これもまさに「探究」!たとえば、LaTeXを作ったアメリカの計算機科学者であるレスリー・ランポート氏が書いた『文書処理システムLATEX2ε』という1999年(日本語版)の本もそのひとつ。さらに「tcolorbox」というLaTeXの有名なパッケージ(拡張機能)のマニュアル(全編英語で500ページ以上!)も印刷して、リングファイルに綴じて読み込みました(そのファイルの背表紙に貼られていた「ワクワクする枠」というラベルに、取材者の私はキュンとしました)。
 「そうやって自分の知識の偏りを解消しなくちゃと思ったんです。そのうえで本に載せる内容を吟味していきました」

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 田村さんが既存の入門書を見ていて感じていたのは、多くが300ページ近くあり、忙しい学生には読み切れず、しかも内容が限られていて痒いところに手が届かないということでした。
 「工学部の学生のために、レポートや論文の作成に必要な事柄がぎゅっと詰まった本に100ページぐらいの本にしたかったんです」と田村さん。他方で、入門書では省かれがちな細かい調整方法や具体例も載せることで、この教科書1冊があれば事足りるような構成になるよう腐心しました。

 また、「教科書」として出すにあたって、ISBNとバーコードもつけるようにしました。
 「図書館に置いてもらいたかったんですが、バーコードのない本だと管理しづらいんじゃないかと思いまして。『数学探究』をつくっている印刷業者さんでは出版の対応はしていなかったので、またインターネットで安く自費出版を請け負ってくれる業者さんを探しました」
 こうして無事にISBNが付与され、出版。中身のデータは完全入稿。読みやすさを意識してフルカラーで作りました。15冊ほどつくり、費用は数万円。学生にとっては大きな出費です。

 印刷・製本する前に日立キャンパスの図書館の担当者に話はしてありましたが、その後無事に完成し、できたてほやほやの「教科書」を持って図書館へ。茨城大学関連の本を特集した棚に並べてもらい、また図書館のX(旧Twitter)でも紹介してもらえました。

 ここまで話を聞いていた取材者の私には、「友人や後輩たちをサポートしたい」という思いから、自ら時間と費用をかけて教科書まで出してしまう田村さんの利他のマインドの源泉は、いったいどこにあるのだろうということが気になってきます。その問いに対し、田村さんは、「学習に困っている学生が多くいたというのが大きな原動力にはなっていて、そのうえでたまたま自分にはそれだけの余力があったという話なんだと思います」という冷静な反応。
 さらに、「評判が良いようなら全国の書店やAmazonにも置いてもらって、もっとリーチするといいですよね」とボールを投げると、「いえ、そこまでは考えていないです。茨大の学生たちに役に立ててもらえれば充分です」と淡々と語ります。

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 前述したように、田村さんにとっては、探究すること・LaTeXで表現すること・本という形にすること・それを身近な人に渡すことがひとつにつながっており、それで充たされているのです。「自分がコントロールできない範囲にまで広げる必要は感じない」と語る田村さんの利他とは、探究に対する自分の楽しさを、自分のできる手段で、身近な他者と無理なくシェアすることで充分に完結するのです。
 取材者の私はこのことに深く感銘し、同時に自分の浅はかさにも気付かされました。
 学生同士の「ピア」な関係で学びをサポートするとか、学びあいのコミュニティとか、そうした概念が理想的な学びのあり方として語られますが、そのあり方は、田村さんのような視野と行動からつくられるのではないでしょうか。
 逆にいえば、大学として学びのコミュニティや、主体的なピア・エデュケーションの輪をつくろうとするならば、田村さんがもっているような探究と共有に対する志向性や、さらには「編集」のようなスキルを取り入れることが重要だということかもしれません。

 さて、今回は「出版」という形をとったものの、田村さん以外の「校閲者」はおらず、「間違っていないか何度も確認しましたが、それでも間違えがないとは言えません」とのこと。そこで、教科書にはアンケートフォームにつながるQRコードを記載し、フィードバックを得られるような工夫も施しました。
 「読者のみなさんから寄せられた感想や意見をもとに見直して、卒業前に最終版を出したいです」と田村さん。
 探究に終わりはありません。

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