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五浦という場所で文化財を守り、伝えていく責任
―卒業生の茨城県天心記念五浦美術館学芸補助員・宮本夢花さん、初めての企画展を手がけて

 北茨城市の茨城県天心記念五浦美術館では、企画展「天心が託した国宝の未来―新納忠之介、仏像修理への道」が212日(月)まで開催されています。彫刻・絵画の優れた技術を持ちながら、岡倉天心(覚三)の導きにより、仏像などの文化財の補修に人生を捧げた新納忠之介(にいろちゅうのすけ)。その人生に思いを馳せながら展覧会の企画を手がけたのは、同館の学芸補助員で本学人文社会科学部卒業生の宮本夢花さんです。

宮本夢花さん 新納忠之介は明治元(新暦1869)年鹿児島県に生まれ、明治22(1889)年に東京美術学校(現・東京藝術大学)の彫刻家に第2回生として入学し、岡倉天心(覚三)と出会います。
 今回展示されている、新納が東京美術学校時代に手がけた彫刻や絵画、写生の数々を見れば、新納がきわめて高い技術を持っていたことは一目瞭然で、当時は特待生にも選ばれていました。

新納忠之介作品

 その技量をもって彫刻家として作品を世に送り出していれば、日本の大芸術家のひとりとして歴史に名を刻んでいたかもしれません。ところが新納は、各地の仏像などの文化財を補修する技術者・研究者となり、生涯で2361点もの文化財の修理を手がけることになります。

 展示されたノートや関連写真からは、自身の足跡を丹念に記録していく新納の几帳面な性格が感じ取れます。その彼が残した約2300点もの資料が、平成262014)年度に、新納の孫の義雄氏から茨城県天心記念五浦美術館へ寄贈されました。その後の10年近い資料整理の成果のひとつとして開催されたのが、今回の企画展です。

 企画を担当したのは、同館の学芸補助員の宮本夢花さん。3年前に茨城大学人文社会科学部を卒業し、同館で来場者向けのガイドツアーなどを担当する展示解説員を2年間務めた後、去年の4月に学芸補助員となりました。そこですぐに言い渡されたのが、「12月からの新納忠之介の企画展を担当してほしい」ということでした。

 宮本さんは福島県いわき市出身。小さい頃から時代劇が好きで、将来は歴史に関係する仕事に就きたいと思っていました。中学生のときに「学芸員」という職業を知って夢を固め、資格を取得できる茨城大学人文社会科学部に入学。学部の卒業単位以外にも履修しなければならない科目が多く苦労をしましたが、模擬展示制作や学芸員実習の経験は楽しく、展覧会を作るという仕事は自分に向いていると改めて実感しました。
 中国思想史のゼミで好きな漢文をたくさん読み、夏休みは水戸キャンパスの近くの提灯製造の老舗・鈴木茂兵衛商店でアルバイトをするなど、東洋の歴史、伝統文化にどっぷり浸った学生生活。さらに、茨城大学五浦美術文化研究所の資源を活かした地域のブランド活動を行う「五浦発信プロジェクト」という課外活動にも参加していたので、茨城県天心記念五浦美術館で職業を得たことには深い縁を感じずにはいられませんでした。

 とはいえ、美術館の本物の展覧会を企画するのはもちろん初めてのこと。新納忠之介の存在も美術館で働くまでは知りませんでした。企画展の担当を言い渡されたその日から、猛勉強の日々が始まります。

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東京美術学校で彫刻を指導していた高村光雲による寄せ木造りの指導資料東京美術学校で彫刻を指導していた高村光雲による寄せ木造りの指導資料

 今回の展示物の中で大きな存在感を発揮しているのが、岩手県・平泉の中尊寺金色堂に伝わる秘仏の大日如来像(一字金輪坐像)の模造です。肌の艶めかしさ、納衣の襞(ひだ)の表現、頭にかぶった宝冠は背後の金輪の彫刻の精巧さ、そして全身のバランス。原品の美しさがあってのこととはいえ、新納の技量がその美しさをそのまま、あるいはもしかしたら原品を超越するかのように写し取り、後代の私たちに見せているようです。ガラスケースの前にしばし佇み、その美しさに吸い込まれそうになります。

 この模刻の坐像は東京国立博物館が所蔵しているもので、その借用には複雑な手続きが必要です。その手続きは宮本さんが展示を担当する前から進められていましたが、会期が近づく中で宮本さんも何度も訪ねることとなりました。「学芸補助員として初めて作品を借りに行くのが東京国立博物館というのは、かなり緊張しました」と振り返ります。

 新納家から美術館へ寄贈された約2300点の膨大な資料からどれを展示するかを選び取るのは宮本さんの大事な仕事。大学時代に漢文や崩し字の古文書をたくさん読んだ経験が、資料の探索の上でも役立ちました。とはいえ、「ここは資料館ではなく美術館なので、美術作品を観たいというお客さんが多いのではないかと思います」という宮本さん。「そうしたお客さんに足を運んでいただくため、なるべく絵画や彫刻の作品を出すということを心がけました」と語ります。

春日巫女 今回の展示品の中には五浦美術文化研究所の所蔵品も。こちらは新納が代表を務めた美術院の土産品として新納が作った「春日巫女」という小品。

 「一番苦労したのは展示図面を作ることです。私は空間認識が苦手みたいで...」。図面上ではうまく配置できているように見えても、実際に配置してみると作品が見えなくなってしまう。そうした試行錯誤を繰り返したようです。
 茨城大学の名誉教授でもある小泉晋弥館長に展示図面を見せたときは、「一番見せたい資料をちゃんといい場所に持って来られるのが、いい学芸員だ」というアドバイスがあり、新納が東京美術学校時代に手がけ、校友会から一等褒状を受けた「寿老人額」という木彫のレリーフ作品の置き場を、会場入口から通路に入って突き当たりの目立つ場所に移動導線上から目立つ位置に移動しました。

新納が東京美術学校時代に手がけた「寿老人額」は細かな技法が光る秀作 新納が東京美術学校時代に手がけた「寿老人額」は細かな技法が光る秀作

 また、自立式のショーケースを直線上に整列させるのではなく、あえて少しずらして配置することで導線や目線に遊びを加えたり、キャプションの書体に丸ゴシックを使うなど、若い人たちにも親しみやすい展示になるような細かな工夫も施しました。

 美術館の学芸員やスタッフの方たちにたくさん助けられながらも、学芸員としてのキャリア1年目にして、初の担当企画展を作り上げた宮本さん。その過程で、大学時代の学芸員実習の際、実習先の先輩学芸員から言われた言葉を何度も思い起こしていました。「学芸員はプロだから、何か展覧会にメッセージを込めないとダメだよ」と。
 「素敵な仏像を観る機会はこれからもあると思いますが、そのときに、こうした文化財や美術作品を守り伝えてきた人、守り手がいたんだということに思いを馳せてくれたら。それが私が一番伝えたいことです」と宮本さんは語ります。

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 新納が文化財の補修の世界へ足を踏み入れたときのエピソードはなかなか強烈です。
 ある日突然岡倉に呼ばれた新納は、奈良の東大寺法華堂の仏像修理を打診されます。新納にとっては未経験の仕事。しかもその仏像は慣れ親しんでいる木彫ではなく、彼にとって扱ったことのない乾漆。失敗したら二度と奈良の地には立ち入れない。そんな思いから必死に抵抗しますが、岡倉も頑なだったようです。

「一体先生は、私は殺すツモリですか。」「うム、殺すツモリだ、芸術の上では君を殺すツモリだ。」先生は飽くまで強い。それで私も心が動いた。「なるほど、死より怖ろしいものは有りません、そこまで先生が云われますなら、私も一つ死を賭して行きませう。」「オウいけ、いツて死ね。」是が私の奈良に根をおろす基であった。(仲川明・森川辰蔵編『奈良叢記』昭和17(1942)年 駸々堂)

 岡倉の言葉どおり、「死を賭して」文化財補修の世界に入り、「補修とは何か」を実践的に探究し、現代にも連なる近代的な「普通修理法」という方法論や、国宝修理を主とする美術院というシステムを確立した新納。
 比較するには大きすぎる存在ではあるものの、学芸補助員となり、急に展覧会を任されることになった不安と闘ってきた自身の境遇を、宮本さんは新納忠之介に重ねずにはいられず、「忠之介さんからパワーをもらっていました」と語ります。その想いが、ポスターのデザインにあしらった、ミントグリーンのきらきらとした模様に込められているようです。

天心が託した国宝の未来

 初めての展覧会の出来を自己採点したら何点?
 そう尋ねると、すぐに「95点です」という答えが返ってきました。
 「頑張ったと思っていますし、自信のあるものしかお見せすべきではないと思っているので。あとの5点は、展覧会が始まってしばらく経ってから、『あそこにあのキャプションを入れれば良かった』などと気付いたポイントです」
 この高いプロ意識の源は、「五浦という場所への責任」だと宮本さんは語ります。
 「学生のときの関わりから展示解説員の経験を経て、付き合いが長くなり、愛着のあるこの五浦で中途半端な仕事はできないと思っています。天心さんも学芸員だったんだと考えると、美術品を守り、後世に伝えていくというその責任を、この場所でちゃんとつないでいかなくちゃと強く思います」
 そう語る宮本さんの目は、太陽の光を浴びた五浦の海のしぶきのように輝いていました。

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