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気候変動の総費用
―生物多様性や人間健康などの非市場価値と2℃目標―

 東京大学大学院工学系研究科や茨城大学などの研究グループは、気候変動の緩和費用のほか、生物多様性の損失や人間の健康被害といった非市場価値の貨幣換算結果を合算して気候変動の総費用を推計しました。
 その結果、生物多様性の損失や人間健康への被害といった非市場価値を考慮し、それらの将来価値を高く見積もる(割引率が低い)場合、パリ協定で合意された2℃目標という温暖化レベル(RCP)の達成が経済的にも不適切ではないことが明らかとなりました。
 市場価値も非市場価値も一律に経済成長に合わせて割り引いた(将来価値の低下の仕方がどちらも同じだと仮定する)場合には、総費用の面で2℃目標が最も低コストという結果にはなりませんでした。
 また、いくつかの温暖化レベルと社会経済シナリオ(SSP)の組み合わせについて推計した結果からは、温暖化レベルにかかわらず、「持続可能な社会シナリオ」(SSP1)の場合に総費用が最小になると推計され、緩和策も含めて、今後我々がどのような社会を構築するかによって気候変動にかかる総費用は大きく異なることも改めて明らかになりました。
 ただし、本研究の結果の解釈には注意も必要です。島しょ国への影響や文化の喪失、また、科学的不確実性が大きな、いわゆるティッピングエレメントと呼ばれる大規模不可逆事象の悪影響が本研究では考慮されていないためです。一方で、急激な社会変革を伴うような緩和策がもたらす副作用についても考慮されていません。さらには、当面の緩和費用を負担するのが現在の先進国であるのに対して、気候変動による悪影響を受けるのは現在から将来にかけての主に途上国であり、負担の公平性など気候正義の観点からの議論が必要です。
 本研究の結果から、緩和策の実施により削減できる気候変動の悪影響による費用と比べて緩和費用がはるかに小さいわけではなく、また、生物多様性の損失や人間健康への被害に対する価値観が人によって大きく異なるため、気候変動対策について社会的な論争が尽きないのだと理解されます。
 逆に、生物多様性の損失や人間健康への被害に対する私たちの価値意識が増大し、社会的・技術的なイノベーションによって緩和費用が大幅に削減されれば、1.5℃目標といった温暖化レベルで総費用が最小になると想定されます。
 本研究成果は、気候変動を生物多様性や健康の問題と一体的に取り扱う必要があり、その対策の加速化にはイノベーションによる緩和費用の削減が重要な役割を担っていることを明確に示し、今後の気候変動対策の推進に大いに資すると期待されます。
 この研究成果は、2023年8月1日(英国夏時間)に英国物理学会のIOP Publishingの環境分野のオープンアクセス雑誌「Environmental Research Letters」で公開されました。

>>プレスリリースをご覧ください

背景と目的

 2015年のパリ協定では、世界の平均気温上昇量を産業革命以前に比べて2℃より低く抑え、さらに、1.5℃に抑える努力を追及することが合意されました。しかし、世界の国々のCO2の削減実績は、2℃目標の達成には遠く及んでいません。その理由の1つは、緩和策に要する費用が、それによる便益に比べて決して小さくはないということが考えられます。気候変動による費用・便益に関しては多くの先行研究がありますが、より詳細な評価をするためにはその費用や便益が発生するメカニズムを詳細にモデル化可能なプロセスベースの統合経済評価モデルを用いた分析が望まれていました。
 これまでの研究では、人間健康への被害や生物多様性の損失といった非市場価値(GDPには計上されない価値)に関して、十分な議論がなされていませんでした。これらの非市場価値を貨幣換算するには、そのための係数が必要ですが、一般に、このような係数の推計は非常に困難です。また、気候変動による将来被害を見積もる際には割引率を使用しますが、非市場価値を考慮する際には、従来から議論されている「将来世代の人命や生物多様性の価値を市場価値と同じように割り引いてよいか否か」について慎重に考慮する必要があります。
そこで、本研究では、プロセスベースの統合経済評価モデルとLCIA(Life Cycle Impact Assessment; ライフサイクル影響評価)の手法を使用し、緩和費用や経済被害に加え、人間健康と生物多様性の被害も含めた評価を行い、気候変動による総合的な費用を見積もりました。

研究の手法

 本研究では、将来の温室効果ガス排出に関するシナリオ(RCP)と社会経済に関するシナリオ(SSP)を考慮し、それらを組み合わせたシナリオ(SSP1-RCP2.6/RCP4.5/RCP6.0、SSP2-RCP2.6/RCP4.5/RCP6.0/RCP8.5、SSP3-RCP4.5/RCP6.0/RCP8.5)ごとに気候変動の総費用(経済被害、緩和費用、人間健康への被害、生物多様性の損失の合計)を評価しました。RCPシナリオに対応する気候条件については、CMIP5の気候モデル(General Circulation Models;GCM、大気大循環モデル)のうちの5つ(GFDL-ESM2M、HadGEM2-ES、IPSL-CM5A-LR、MIROC-ESM-CHEM、およびNorESM1-M)を用いました。
 経済被害(農業生産性、低栄養、冷暖房需要、労働生産性、水力発電量、火力発電量、河川氾濫、沿岸浸水)は、研究グループが過去に統合評価モデルを用いて行った研究(Takakura et al., 2019)の結果を利用しました。全球を50㎞四方のグリッドに分割し、各グリッドに気象データを与えることで計算されたそれぞれの分野の影響を、マクロ経済モデル(AIM/CGEモデル)または過去の影響と被害額の関係を用いることによって評価しました。
 緩和費用は、AIMモデル(Fujimori et al., 2017)を用いて評価しました。各社会経済シナリオには、緩和策を実行しない場合のGDPの将来推移(Business As Usual;BaU)が仮定されます。それに対して、緩和策を実行した場合には経済成長が鈍化するため、GDPが小さくなると考えられます。そのときのGDPのBaUからの差分を、緩和費用として算出しました。
 人間健康への被害(低栄養、河川洪水、暑さによる死亡)は、それぞれの発生要因ごとのモデルによって算出された死者数に対して、要因ごとに影響を受けやすい年代を考慮してDALY(Disability-Adjusted Life-Years; 障害調整生存年数)に換算しています。さらに換算されたDALYに対して、貨幣換算係数(Murakami et al., 2018)を乗じて貨幣価値に換算しました。
 生物多様性の損失は、LCIAの知見を活用し評価しました。生態ニッチモデルを用いて予測した5分類群(鳥類、爬虫類、両生類、哺乳類、維管束植物)それぞれの100年間の潜在的な生息適地面積の変化量から気温上昇の影響によって絶滅の危機に瀕する種数を評価し、その期間の気温変化量で除することで、各分類群の1年あたり・1℃上昇あたりの絶滅種数を算出しています。ここでは評価期間のGCMの気温上昇量を乗じることによって絶滅種数を求めました。絶滅種数に対して、貨幣換算係数(Murakami et al., 2018)を乗じて貨幣価値に換算しました。
 また、本研究では、将来費用の割引について、2つの方法を検討しました。1つ目の方法は、市場価値と非市場価値の両方をラムジー式(ρ(t)=δ+g(t)∙η ; ρ(t)が割引率、g(t)がGDP成長率、δ=0.5、η=1.0)によって割り引きます。ラムジー式は割引率の決定において最もよく使用される方法の1つで、将来価値を割り引く要因(時間選好性、巨大災害リスク、消費成長)をよく表現できます。もう一方の方法では、市場価値はラムジー式によって割引率を決定しますが、非市場価値は固定された非常に小さい割引率(0.1%)で割り引きます。

結果と考察

 図1は、各SSP/RCPシナリオの経済被害(a)、人間健康被害(b)、生物多様性被害(c)、緩和費用(d)を示しています。経済被害と緩和費用はラムジー式によって割り引いた値を、人間健康被害と生物多様性被害は貨幣価値化する前の値を示しています。AIM/CGEモデルによる経済被害の推計からは他の多くのプロセスベースモデルと同等の値が得られることが知られていますが、RCP4.5とRCP6.0の経済被害は大きな差がないことが示されています。近年Burke(2015)等によって提示された経済被害関数はプロセスベースモデルよりも非常に大きい経済被害を推計することが知られていますが、Burke等は気温の経済成長率への影響をモデル化(growthモデル)しているのに対し、AIM/CGEのようなモデルは気温の経済影響を単年で評価(levelモデル)しています。これらの手法は、それぞれに一長一短があり、どちらが良いかについてはまだ決着はついていません。
 図2は、各SSP/RCPシナリオの総費用について、(a)市場価値と非市場価値をラムジー式で割り引いた結果と、(b)非市場価値を非常に小さい割引率で割り引いた結果とを示しています。両方をラムジー式で割り引いた場合(a)では、パリ協定で目指す2℃目標(RCP2.6相当)における総費用が必ずしも最小にはなっていません。一方で、非市場価値を非常に小さい割引率で割り引いた場合(b)には、2℃目標における総費用がそれ以外の場合と比べて大きいわけではなく、2℃目標が経済的にも不適切ではないことがわかります。また、すべてのRCPシナリオについて、持続的な社会経済の発展をした場合(SSP1)に総費用が最小となり、今後我々がどのような社会を構築するかが、気候変動の総費用の大きさを決定する重要な要素であることが改めて明らかになりました。
 ただし、本研究の結果の解釈には注意が必要です。
 まず、図1に示す数字は長期間(90年間)累計の費用を示していますが、各年の費用はこれとは異なります。表1は、2050年と2099年の生物多様性を除いた費用を示しますが、例えば、SSP3-RCP4.5シナリオでは、2099年の費用はGDPの8.67%にも上ります。
 また、本研究では、大気汚染の軽減を通じて緩和策がもたらす便益や、島しょ国への影響や文化の喪失、そして、いわゆるティッピングエレメントと呼ばれる大規模不可逆事象による悪影響は科学的不確実性が大きいため考慮されていません。確率が小さくとも一旦生じたら甚大な被害をもたらすリスクについては、単に数学的な期待値で評価すべきではないという考え方もあります。今後、気候科学の進展によってそうした事象の発生確率が大きく、被害の期待値も大きいことが確実になれば、温暖化レベルが高いシナリオで想定される被害が大きくなるため、2℃目標や1.5℃目標で気候変動の総費用が最小となる傾向が強まると想定されます。
 一方で、本研究では2015年ごろの知見に基づき将来にわたる緩和費用を想定していますが、近年の技術革新と普及拡大に伴い緩和費用も急激に低下しており、そうした傾向がさらに進めば、2℃目標や1.5℃目標といったより温暖化レベルが低い場合に気候変動の総費用が最小になり得ると考えられます。ただし、急激な緩和策に伴う社会変革が及ぼすモノやサービスの需給変容によって職を失う人や土地被覆や土地利用の改変が生物多様性の損失や食料供給リスクに及ぼす影響については十分に考慮されていない点にも留意する必要があります。
 さらに、当面の緩和費用を負担するのが現在の先進国であるのに対し、気候変動の悪影響を受けるのは現在から将来にかけての主に途上国であり、気候正義の観点からの議論も必要です。
press0801_02.jpg図1:3つの社会経済シナリオ(SSP)ごと、いくつかの温暖化レベル(RCP)ごとに推計された気候変動影響。(a)農業生産性、沿岸域の浸水、冷房と暖房の需要、河川洪水、水力発電、職業上の健康被害、火力発電、栄養不足という8つのリスク要因セクターにおける経済的影響、(b)人間健康 (洪水や暑さに起因する過剰死亡率、および栄養不足)、(c)生物多様性、および(d)緩和費用。(a)と(d)の値は割り引かれた影響の累積値。SSP1/RCP8.5およびSSP3/RCP2.6を除きすべてのSSP1-3/RCP2.6-8.5の組み合わせに対する影響を棒グラフで示す。点は平均値、バーは5つの気候モデル(GFDL-ESM2M、HadGEM2-ES、IPSL-CM5A-LR、MIROC-ESM-CHEM、およびNorESM1-M)間の推計値の1標準偏差の不確実性。不確実性は、緩和費用以外のすべてのセクターについて考慮されている。(注: RCP: 代表的な濃度経路。SSP: 共有された社会経済的シナリオ。DALY: 障害調整生存年数。)

気候変動の総費用
図2:2010年-2099年の全世界について集計された気候変動の総費用。累積割引費用の累積割引GDPに対する割合(%)。(a)市場価値と非市場価値の両方に対してラムジー式に基づく割引率を適用した場合、および(b)市場価値はラムジー式に基づいた割引率、非市場価値は時間変化なしに0.1%という割引率を適用した場合。点は平均値で、不確実性を示すバーは5つのGCMの結果間の1標準偏差。

生物多様性への影響を除く年間の影響

まとめと今後の展望

 本研究では、気候変動影響の近年の研究成果を総合的に用いて、気候変動による総費用を評価しました。気候変動の総費用は、割引率の設定によって結果が大きく変わることが示され、将来の非経済価値を考慮に含め、かつ、それらの将来価値を高く見積もる場合、2℃目標が経済的にも適切な目標であることが示されました。また、我々が持続的な社会を構築できるかどうかによって、気候変動の総費用が大きく異なることも改めて明らかになりました。
本研究で示された気候変動の総費用は、気候変動の地球科学的理解や影響評価技術の深化、ならびに、科学技術イノベーションの進捗によって大きく変わり得るため、適宜見直し、精緻化する意義があると考えられます。また、気候モデル(GCM)の将来推計間のバラツキに起因する影響評価の不確実性は高く、空間解像度を含め、気候モデルの将来予測の定量的な精度向上が的確な気候変動の総費用推計には必須です。

研究チームの構成

  • 国立大学法人東京大学 大学院工学系研究科 社会基盤学専攻 沖 大幹(教授) 木口 雅司(上席研究員)
  • 日本工営株式会社 中央研究所 先端研究センター 気候変動研究室 小田 貴大(研究員)
  • 国立研究開発法人国立環境研究所 社会システム領域 高倉 潤也(主任研究員) 高橋 潔(副領域長)
  • 気候変動適応センター 花崎 直太(室長) 肱岡 靖明(センター長)
  • 国立研究開発法人農業・食品産業技術総合研究機構 農業環境研究部門 湯 龍龍(主任研究員) 飯泉 仁之直(上級研究員)
  • 学校法人早稲田大学 理工学術院 伊坪 徳宏(教授)
  • 国立研究開発法人森林研究・整備機構 森林総合研究所 生物多様性・気候変動研究拠点 大橋 春香(主任研究員) 松井 哲哉(生物多様性・気候変動研究拠点長)
  • 国立大学法人愛媛大学 大学院農学研究科 熊野 直子(准教授)
  • 気象庁 気象研究所 田上 雅浩(研究官)
  • 国立大学法人茨城大学 地球・地域環境共創機構 田村 誠(教授)大学院理工学研究科都市システム工学領域 横木 裕宗(教授)
  • 華北電力大学 経済管理学院 周 茜(副教授)
  • 学校法人立命館 立命館大学 理工学部 長谷川 知子(准教授)
  • ソウル市立大学 都市科学大学院 造景学科 Chan Park(副教授)
  • 学校法人芝浦工業大学 工学部 土木工学科 平林 由希子(教授)
  • 国立大学法人京都大学 工学部環境工学科 藤森 真一郎(准教授)
  • 国立大学法人筑波大学 本田 靖(名誉教授)
  • 国立大学法人横浜国立大学 総合学術高等研究院 松田 裕之(上席特別教授)

論文情報

  • タイトル:Total economic costs of climate change at different discount rates for market and non-market values
  • 著者:Takahiro Oda, Jun'ya Takakura, Longlong Tang, Toshichika Iizumi, Norihiro Itsubo, Haruka Ohashi, Masashi Kiguchi, Naoko Kumano, Kiyoshi Takahashi, Masahiro Tanoue, Makoto Tamura, Qian Zhou, Naota Hanasaki, Tomoko Hasegawa, Chan Park, Yasuaki Hijioka, Yukiko Hirabayashi, Shinichiro Fujimori, Yasushi Honda, Tetsuya Matsui, Hiroyuki Matsuda, Hiromune Yokoki, and Taikan Oki
  • 雑誌:Environmental Research Letters
  • 公開日:2023/08/01,17:00(日本時間)
  • DOIhttps://iopscience.iop.org/article/10.1088/1748-9326/accdee/