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[人文社会科学の最前線!]田中 裕教授

 不定期配信シリーズ「人文社会科学の書棚から」のスピンオフ企画「人文社会科学の最前線!」。科研費に採択された研究や自治体等との共同研究の成果を通じて、人文社会科学部の学問を紹介します。
 今回は、人文社会科学部の田中 裕教授です。日本学術振興会の科学研究費助成事業で基盤研究(C)に採択された「鹿島・香取「神郡」成立の背景を景観復原からみる考古学的実証研究」(2018~22年度)の研究成果を、田中先生ご自身に紹介していただきました。 (企画・構成:茨城大学人文社会科学部

 全国で5カ国しか現存しない奈良時代の『風土記』のうちの一つ『常陸国風土記(ひたちのくにふどき)』には、律令制移行に伴って地方行政区画ができる様子が書かれています。地方行政区画の整備は、7世紀中葉以降、それまでの国造制から(国)―評―五十戸へと移行を開始し、国―郡―里(701年~)、国―郡―郷―里(717年~)、国―郡―郷(740年~)に至りますが、『常陸国風土記』には最初の「評(こおり)」が建てられる記事(「建評記事」)があるのです。
 しかも、全国で8カ所しかない「神郡(しんぐん)」の一つ、鹿島郡における「香島建評記事」は、最も早く「評」が建てられた記事(649年)であり、那賀国と下海上国の二つの国造国をそれぞれ割いて「神郡」を置いたと書かれています。当時の地域社会は、既存の枠組みを踏襲しながら行政区画に移行したため、激しい地域再編を伴ったのでしょうか。「神郡」という特種な行政区画を置く意味と合わせて、大いに興味を惹かれるところです。20230712_jinbuntanaka 今回の研究は多岐にわたりましたが、7世紀前後の古墳(主に終末期古墳)の調査を2 進め、古墳と郡家(ぐうけ、郡の役所跡)、郷名対応地点(里や郷が置かれた可能性がある地点)等の位置関係を分析したところ、主要な終末期古墳は郡家近郊や既存の大型古墳群周辺に集るわけではなく、むしろ郷名対応地点に散らばって新たに築かれた例が少なくないことがわかりました。このことから、1)「建評」期以前から有力な集団が、既得権益を確保するため、評や五十戸編成のまとめ役になった(あるいは誘致した)、2)「建評」を機に評だけでなく五十戸(里)長の利権が分配しなおされ、新たな利権を獲得する集団が生まれた、などの可能性が考えらます。
 少なくとも「建評」前後の地域再編が激しかったこと、後の国郡里(郷)制にいたる基礎が7世紀に概ね形成され、固定化されたことがうかがえます。そして、同一氏族による郡司の寡占が特別に認められた「神郡」において、鹿島神宮を中臣氏、香取神宮を大中臣氏が奉祭するようになることから、中臣鎌足(なかとみのかまたり)が功を上げた乙巳の変(いっしのへん)の直後に「建評」によって特別な権益を確保した集団が存在したことがうかがえます。

田中 裕 (たなか ゆたか)
1968年、長野県生まれ。筑波大学大学院博士課程歴史人類学研究科退学後、千葉県教育庁勤務を経て現職。博士(文学)。
主な著書に、『古代国家形成期の社会と交通』同成社 2023年、『続常陸の古墳群』(佐々木憲一・田中裕共編著)六一書房 2020年など。

成果報告書

この研究成果の一部については、『常陸国「建評」前後の古墳研究』と題し、茨城大学人文社会科学部考古学研究室より2023年3月に発行されております。常陸国「建評」前後の古墳研究調査報告書は茨城大学考古学研究会より増刷分を入手することが可能です。入手はこちらから