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茨大の「あの日」
ー1968年11月16日 三島由紀夫が 茨大講堂で講演

「文化防衛論」の中に鮮明な記録が残る、茨大生と 三島由紀夫との"真剣勝負"

三島由紀夫こちらの写真は東京大学で講演する三島由紀夫。残念ながら茨大の講演時の写真は見つかっていない。 ©Shinchosha/毎日フォトバンク

 作家・三島由紀夫(1925~1970)の『文化防衛論』という本には「学生とのティーチ・イン」という項があり、3つの大学で行われた「国家革新の原理」という演題の講演と討論の記録が収録されている。そのひとつは、1968年11月16日、場所・茨城大学講堂、主催・茨苑祭実行委員会とクレジットされている。

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 当時文理学部の3年生だった元茨城大学理事の影山俊男(75)は、その日の熱気を覚えている。国防色のセーターとパンツ姿の三島の全身から満ち溢れた自信、豪傑な笑い声。ひしめく聴衆。「小説家の話と思って聞きに行ったのに、まさかこんな話をするのかと。言葉の力に圧倒されました」と振り返る。

講堂前で影山氏、正面.JPGのサムネイル画像 三島が講演を行った講堂の前に立つ影山俊男

 三島の講演を企画したのは、影山の1年先輩で学友会の会長を務めていた小野瀬武康(76)だった。時代は学生運動真っ盛り。茨大の学生の組織も政治的立場を異にする学友会と自治会とに分かれ、文化祭も分裂を起こしていた。「大学を正常化したい」そう願う小野瀬は、学生の心をまとめる力をもった人物の講演会を構想した。
 同年10月、小野瀬は茨苑祭実行委員長とともに早稲田大学の大隈講堂での三島のティーチ・インに参加し、その後寿司屋で行われた懇親会にも参入。三島本人と直接面会を果たし、講演を依頼した。「すごいオーラでした。圧倒されそうでしたけど、茨城大学の代表として臆せず話をしようと努めました」と小野瀬は振り返る。その場で承諾を得た。
 茨大の講堂いっぱいの参加者を前に、三島は、日本のために護るべきものは何か、行動のモラルの根拠として置くものは未来なのか、それとも現在や過去か、そう問題提起をした。それに対して学生たちはイデオロギーの存在価値を主張する。真剣な言葉同士がぶつかる緊張感が記録文からも伝わってくる。

当時の学友会役員たち。前列中央が小野瀬氏当時の学友会役員たち。前列中央が小野瀬


 講演の後、水戸・大工町の割烹「魚政」で三島を囲んで食事をした。謝金を手渡すと、三島はひっくり返したのし袋に「三島由紀夫」と書き記し、その謝金にポケットマネーを足して返した。「がんばれよ」の言葉とともに。「しびれる思いがしました」と語る小野瀬の口調に当時の興奮が蘇る。しかし、その2年後の1970年11月25日。三島は自衛隊に決起を呼びかけたあと自決する。その衝撃を小野瀬も影山も未だ忘れることはできない。
 それから半世紀が経った2017年。この講演記録を読んで茨城大学への進学を決めた一人の学生がいた。阪井一仁(24)だ。相手を尊重しながら自分の思うことを伝える三島の議論の進め方に影響を受け、自身も在学中、授業の中で実践を試みた。3年生のときの茨苑祭の日は、水戸キャンパス近くの一室を借り、数人のグループで講演記録を読んで議論した。在学中には自衛隊の活動も経験した。「学生とのやりとりを見ても、三島さんは一切手を抜かない。自分も一生懸命あり続ける人間であろうと決めました」。その思いで進路について悩み抜き、今は教育書の出版社で文字どおり「一生懸命」に仕事に取り組んでいる。

茨大のあの日_阪井一仁氏.JPG 三島の講演記録を読み、茨大への進学を決めた阪井一仁


 三島との出会いで生き方を真剣に考えた、というのは小野瀬も同じだ。大学卒業後、茨城県庁に勤めた小野瀬は、仕事の傍ら剣道を習い始め、国際貢献活動も立ち上げた。ついにはフィリピンに剣道場を創設し、指導者を育てるところにまで至った。そして72歳で剣道六段審査に合格した。「命のはかなさがあるからこそ人生を大事に生き、自分の頂点を窮める」、三島の美学をそう理解し、今も実践する小野瀬。「茨大でもこんなことができたんだよ、ということを今の学生のみなさんにも伝えたい」と力強く語った。

キャンパス内を歩く小野瀬氏.JPG 久しぶりに茨大キャンパス内を散策する小野瀬武康


(文中敬称略。年齢は2023年3月1日現在)


IBADAIVERS_LOGO.pngこの記事は茨城大学の広報紙『IBADAIVERS(イバダイバーズ)』に掲載した内容を再構成したものです。