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「100年後に応用されるような論文を書きたい」
―日本数学会解析学賞受賞の理・中井英一教授に聞く数学者としてのあゆみ

 理工学研究科(理学野)の中井英一教授が、このたび日本数学会解析学賞を受賞しました。今年度は入江博准教授も同学会幾何学賞を受賞しており、本学からはダブルの受賞という快挙に。茨大卒業生でもあり、今年度で定年を迎える中井教授に、数学者としてのあゆみなどを聞きました(取材:茨城大学広報室・山崎一希)

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数学者への浅はかな質問

「まず数学についてお話ししますと、研究をするときは応用を考えているわけではなくて、純粋に理論を構成しようということで研究するわけです」。

 冒頭からたしなめられてしまった。とても穏やかな口調で。数学の専門知識が圧倒的に不足している取材者からの「どんなことに役立つのですか」という浅はかな質問を予想していたかのように。

 理工学研究科(理学野)の中井英一教授。折り目正しい、という形容詞がしっくりくる。専門は、「変動指数をもつ関数空間」とそれを利用した解析学(専門的には「実解析」「調和解析」)の理論構築。

 関数空間というのは、異なる複数の関数(f(x), g(x), h(x)...)の関係をひとつのベクトル空間に落とし込んだもの。この関数空間をうまく作り、活用することで、関数同士(たとえばf(x)g(x))の距離を捉えたり、ある条件を与えた関数の変換を図形的に解析したりすることができる。微分・積分のような解析学と、ベクトルを扱う代数学、図形を扱う幾何学とをつなぐ、それが関数空間だ。

 古典的な関数空間は、空間内のどの位置でも連続性や可積分性が一定に保たれているものだったが、現在は位置に応じてそれらが変動する複雑な関数空間がさかんに研究されており、それによって解析学も日々進展している。中井教授も長年この分野の研究に取り組んできた。「年に5~6本、最近は結構ハイペースで論文を書いてますね。夢中で書いてますから」。今回の日本数学会解析学賞は、まさに中井教授の長年の貢献を称えるものだ。

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過去の論文が研究のすべて

 人生初の論文となった「変動平均振動量をもつ関数空間」についての成果を発表したとき、中井教授は茨城大学のマスターの大学院生だった。生まれ育ったのは茨城県の笠間市。学校の授業以外でも数学のことを考えているのが好きで、数学者への憧れを抱き、茨城大学に進学した。

「数学というのは、たとえばピタゴラスの定理は2000年も前に証明されたわけですが、証明されたらそれはもう永遠に正しいんですね。そうして昔の数学者たちが積み上げてきた理論の上に、さらに自分の新しい理論の小さな一段を積み重ねるわけです」。

 数学の研究には実験器具や自然現象の観察は出てこない。基礎となるのは、過去の研究者たちのアイデアが書かれた膨大な論文だ。ひとつの分野に限ったとしても、学部4年間だけでは理論体系をとても学びきれない。ドクターになってようやく論文が書けるという世界なのだ。

 したがって、数学の研究にとっては、日々出される論文にできるだけ多くアクセスできることが命綱となる。というか、それがなければ何もできない。今はほとんどの論文雑誌が電子化しているから、電子ジャーナルの契約が重要だし、アメリカ数学会の論文ポータルである「MathSciNet」へのアクセスはとりわけ必須だ。

「ジャーナルの価格の高騰化と厳しい大学経営を受けて、茨城大学でも電子ジャーナルの契約が削られています。茨城大学理学部として今まで研究を積み重ねられてきたのは、大学としてこれまで論文をしっかり購入してきたからですよ。これは守っていかないと」と語る中井教授の表情には、切迫さが滲む。

1001_03.jpg「今でも計算は手でしますよ。最近は紙よりもタブレットが便利ですけどね」

論文は永遠に語り続ける

 マスターで指導教員となった薮田公三教授(当時)のもとで、中井教授はその後40年以上続けることになる現在の研究分野に本格的に取り組むことになり、初めての論文作成にも挑むことになる。

「当時、『How To Write Mathematics』というタイトルだったか、論文の書き方についての本を読んだんですね。そこには、『あなたが書いた論文は、あなたのために永遠に語り続ける』という趣旨のことが書かれていたんです」。

 このメッセージが何を意味しているのか、当時は今ひとつわからなかった。ところが、それから約20年の時を経て中井教授はその意味を知ることとなる。専門的な説明は省くが、その人生初の論文が、「変動指数をもつ関数空間」に関する論文で引用されるようになり、それからは何度も引用されるようになったのだ。

 冒頭の言葉にあったように、数学者である中井教授は、応用ということは必ずしも念頭に置かず、数学的な美しさを追い求める中で新たな理論を構築してきた。それがどう役立つか、どう使われるか、は二の次なのだ。

「リーマン幾何学が19世紀後半に研究されて、それが20世紀のアインシュタインの相対性理論につながったように、数学の理論を利用して物理が発展するという事例はたくさんあります。最近だと、応用には全く無縁と思われていた素数などを扱う整数論が、ブロックチェーンなどの技術を支える暗号理論にとって欠かせないものになっていますね」

 だからこそ、20年後にやってきた応用の報せに、教授自身も驚かずにはいられなかった。「ああ、そういう応用があったのか」と。「あなたが書いた論文は、あなたのために永遠に語り続ける」ことを知ったのだ。

 その他にも、発表から同じように何年、何十年の時を経て、突然引用が増えた研究がいくつかある。1994年にドイツの雑誌に発表した論文は、2010年以降に引用が増え、今でも引用され続けている。もっとも、「20年」なんていうのはまだ短い方かも知れない。300年前の問題がようやく解けた、まだ解けない、というのが普通の世界なのだ。

歴史は続く

 中井教授は、高等学校や工業高等専門学校で教鞭をとった後、大阪教育大学に最も長く務めた。そして2011年、母校である茨城大学理学部へ籍を移した。あてがわれた研究室に入ると、古いハンガーがかけっぱなしになっており、そこには「水戸市 荷見(はすみ)」という筆文字が書かれていた。中井教授が学部生のときの指導教員だった、荷見守助教授のものだ。脈々と受け継いできた茨城大学理学部の数学研究の系譜。そして今年、中井教授は65歳の定年を迎える。

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 定年を前に、先達から受け継いできた茨城大学理学部での研究の環境が今後も引き継がれていくかについては、正直不安も残る。一方、研究仲間との交流の蓄積が、数学研究の未来の希望につながっている。

「これまでの教え子たちが、だいたい40代になって、日本から世界へ飛び出して活躍しています。数学の研究に国境も組織の壁もありません。私もまだまだ、100年後に応用されるような、そういう論文を書きたいです」。

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