時間反転の証拠を探せ!鍵はミューオン×MRI
―独創的かつ壮大な実験に取り組む飯沼裕美准教授
気鋭の映画監督クリストファー・ノーランが手がけたSF映画『TENET テネット』(2020年、アメリカ)に、銃弾が撃ち込まれた壁に向かってピストルを撃ったら、壁側から銃口の方へと弾丸が戻ってくる、という場面がある。驚く主人公に研究者が言う。「弾丸は普通時間を前に進む。でも逆にも進む。......エントロピーが減少すると"逆再生"に見える。おそらく核融合の逆放射」。こうした時間反転の原理が埋め込まれたデバイスを用いながら、主人公は第三次世界大戦を防ぐミッションを担う。
理工学研究科(理学野)の飯沼裕美准教授の研究室では、「『TENET』を観てくるように」という課題が出されるとか。「ノーラン監督の映画には、いつも最新の物理の研究成果が活かされてますよね」。そう語る飯沼准教授自身、素粒子に生じる時間反転の証拠をまさに日々追い求めているのだ。
原子の中心には原子核があり、原子核の中に陽子と中性子がある。さらにその中にはクォークなどの素粒子がある。素粒子の研究は20世紀に目まぐるしいスピードで進んだ。そのうち、マイナスの電荷を帯びた電子に対し、プラスの電荷を帯びた「陽電子」というものが存在することもわかった。電子だけでない。あらゆる素粒子には、対となる「反粒子」が存在する。宇宙のおおもとは粒子と反粒子という対称性の世界であったということを、素粒子研究は教えてくれる。
しかし、反粒子が存在するということは、それらが物質を形成することで「反物質」も生まれるはずだが、この地球上に「反物質」らしいものは見当たらない。ビッグバンのあと何かが起きて、粒子が反粒子の対称性が破れ、私たちが生きている物質優位の世界になったのだ。
時間は絶対的なものではなく、物理運動に依存する相対的なものだ、というのが、アインシュタインの相対性理論だ。粒子と反粒子が対で存在している対称性の世界では、時間の向きも一定ではなく、あらゆる方向を向いている。『TENET』の銃弾は、その中の原子に何かしらの手を加えることでそれに対応する時間の向きを変えているのだろう。
20世紀の物理学では、対称性の世界を、C、P、Tという3つの文字で捉えてきた。CはCharge(荷電)で粒子からと反粒子の関係を指す。PはParity=空間座標。そしてTがTime、時間の対称性だ。2008年にノーベル物理学賞を受賞した小林誠・益川敏英の両博士の功績は、CとPの対称性の破れが連続して起こる証拠(CP対称性の破れ)を見つけたというものだった。その後もさまざまな証拠が見つかっているが、今のところそれらの証拠を全部集めても、ビッグバンから反物質のない現世界へ至る経緯を説明するのには全然足らない。ちなみに理論的には、CP対称性が破れるとき、Tの対称性も破れていないとおかしいらしい。ところがTの対称性の破れを示す実証実験に関しては未だ誰も成功していない。そして、飯沼准教授が今進める壮大なプランは、このTの対称性の破れの証拠を見つけるというものなのだ。
もっともその研究方法は、ピストルの銃口に戻ってくる弾丸を見つけることではない。扱うのはもっともっとミクロな、「ミュー(μ)」というギリシャ文字があてがわれた素粒子、その名も「ミューオン」だ。素粒子はコマのように自転している。スピンには向きがあり、時間が反転するとその向きも反転する。ただしスピンだけを観測していてもそれが時間の反転によるものかはわからない。だとすれば、時間反転によるスピン反転が起きても向きが変わらないような別のものに注目し、それを目印にすれば良い。この目印が、電気双極子(Electric Dipole Moment)、略してEDMだ。したがって重要なのは、スピンをいかに精確に観測するかということと、EDMを探知すること、この2つだ。
「EDMを探知できたら、即、ノーベル賞決定のようなものです」と飯沼准教授。しかし、そのためにもスピン観測の精確さが問われる。なんせ、10のマイナス10乗、つまり「0.0000000001」メートルの世界を捉える精密実験なのだから。「『将を射んとする者はまず馬を射よ』と言いますが、『将』をEDMとすれば、精密実験に耐えられるだけの精度が『馬』。お馬さんを追い求めることが大事なんです」。
飯沼准教授のアイデアは、簡単にいうと"MRIにミューオンビームを投射する"というもの。医療で使われるあのMRIだ。MRIはどうして身体の内部の映像を見ることができるのか。まず、大きな磁場を発生させて、身体内の水素原子のスピンに歳差運動を起こす。コマの軸がまっすぐではなく左右にふらつくような動きを思い浮かべてほしい。「歳差運動」というのは、まさにコマの軸が鉛直方向にビシッと立たず、鉛直方向の軸の周りを回転する動きのことだ。そこに電磁波を送ると、あるレベルで共鳴が起こり、スピンの動きが変化する。この変化のデータを捉えることで、身体の各場所の様子を描出することができる。
人間の体はほとんど水分だからターゲットは水素原子だが、MRIの原理としては他の原子、素粒子の様子も捉えることが可能だ。ただし、粒子によって向き不向きはある。「ミューオンは質量が電子の200倍で、機構もシンプルなので素粒子の中でも最適だと考えています」と、ミューオンスピンとMRIのような装置を利用してEDMを検出するという、この斬新なアイデアを着想した飯沼准教授は語る。
今のところ、ミューオンビームをMRIに投射するような設備は、世界中のどこを探してもない。あるわけがない。ならば、いったいどこでやるのか。
驚くことなかれ、飯沼准教授発案のこのアイデアを実現するための設備の建設が、現在、茨城県東海村のJ-PARC(大強度陽子加速器施設)で進められている。成功したらノーベル物理学賞モノという、この研究に対する業界の期待感がわかる。「アイデアのレベルから、いつの間にかどんどん話が大きくなってきて、今や超大規模な設備の設計に関わっているという......なんとなく不思議な感じです。『T対称性の破れ』を見つけるという目標があるからこそ、ここまで来ることができました」。
ところでMRIのリングは直径66cm。そこにビームを入れて観測するなんて簡単そうだと思うかも知れないが、全くもってそんなことはない。そもそも10のマイナス20乗ほどの小さい物理量を検出するには精確なビーム入射が不可欠だ。したがって、ビーム制御のための磁石の組み立てには相当精密な設計が必要となる。しかも観測のためにビームをリング状に曲げるのだが、光とほぼ同じ速度で動くミューオンを直径66cmの円で二次元的に曲げても、容易に観測はできない。そこで飯沼准教授は、二次元の円ではなく、らせん状、つまり三次元になるようにビームを入射する技術の開発を進めている。
J-PARCの設備はまだできていないので、今は簡易な(といってもそれなりにお金はかかっている)実験装置で、らせん状のビーム投射の実験をしている。使うビームはもちろんミューオンというわけにはいかず、電子ビームだ。コイルなどはいくつかの部品は研究室のメンバーが手づくりした。この設備をつくるのに2年かかり、強度を増やしてそれなりの映像を得るまでにさらに3年かかった。基礎研究には根気が必要なのだ。
ところで、これらの実験を支えるのが、飯沼准教授の前任地であるKEK・高エネルギー加速器研究機構(つくば市)の研究者、技術者たちである。CP対称性の破れを証明した小林博士もKEKの教授として、ここの加速器を用いて実験を行った。T対称性の破れを見つけるという壮大な目標に、とうに定年退職を迎えたはずの大先輩の研究者たちも組織の壁を超えて協力を続けている。
「KEKはつくばで、J-PARCが東海村。茨城県は対称性の破れの観測の世界的なメッカなんです。私のいる東海サテライトキャンパスも、道路を渡ってすぐにビームラインがあるんですよ。すごく恵まれた環境ですよね。学生たちにもいつも、東海村に住むように薦めています」(飯沼准教授)
J-PARCの新設備の竣工予定は4年後の2026年。飯沼准教授らの実験施設だけでなく、ミューオン顕微鏡などの新たな設備も一緒に整備される予定だ。「これでもし何も観測できなかったら、私はいったい20年間何をやってたんだ、って感じですけどね」と笑いつつ、その視線は、宇宙の起源の解明への貢献という未来へまっすぐと投射されている。
※本研究活動の一部は、学長リーダーシップ経費による「令和3年度 特色研究加速イニシアティブ支援」を受けて実施しています。
飯沼裕美(いいぬま・ひろみ)●理工学研究科(理学野)准教授
神奈川県生まれ。2006年京都大学大学院理学研究科物理学宇宙物理学専攻修了、博士(理学)。民間企業に勤めた後、博士を取得。理学研究所の放射線研究室、米国ブルックヘブン国立研究所などの研究員を経て、2008年より高エネルギー加速器研究機構の素粒子研究所。2016年10月から現職。同じく研究者の夫と小学生の子どもと一緒に東海村で生活している。研究室WEBサイト→http://muonspin.sci.ibaraki.ac.jp/
ときには何十年、何百年後の未来を展望しながら学問、真理を追究する研究者たち。茨城大学にもそんな魅力的な研究者がたくさんいます。
研究者自身による寄稿や、インタビューをもとにしたストーリーをお楽しみください。
【企画:茨城大学研究・産学官連携機構(iRIC)&広報室】