東京五輪での審判の体験
―教・渡邊將司准教授に聞く「現場」の空気とスポーツのこれから
この夏開催された東京オリンピック・パラリンピックで、教育学部の渡邊將司准教授(保健体育教室)が陸上競技の審判員を務めました。世界中が注目する一大イベントでの審判という仕事に強いプレッシャーを感じつつも、まさに五輪ならではの貴重な体験も数々あったとのこと。無観客となった「現場」はどんな空気だったのか、今回の経験を踏まえ、スポーツのこれからをどう考えるか―渡邊准教授に聞きました。
―どんな競技の審判を担当したのですか?
渡邊「陸上の投げる競技―円盤投げ、ハンマー投げ、砲丸投げ、やり投げですね。そのうちの特に、オリンピックの男子・女子の円盤投げでは、投てき物の落下地点の判定をしました」
―五輪参加のきっかけは?
渡邊「4年ほど前に、茨城陸上競技協会の審判委員長から依頼を受けたんです。各都道府県から2人ずつ審判を出すことになっていて、大学の教員で時間の融通が利きそうというのと、英語でのコミュニケーションにあまり抵抗がない、ということで選ばれたのだと思います。ちなみにもう一人は高校教員を定年退職された方でした」
―審判を務めることが決まったときはどんな気持ちでしたか?
渡邊「こんな一大イベントにまさか自分が関わるとは思わなかったので、やりがいがあると感じた半面、自分にうまく務まるかな......という不安もありました。五輪という重要な大会できちんとジャッジができるか、英語でのコミュニケーションという言葉の問題をクリアできるか、と」
―本番へ向けていろいろ研修があるわけですね。
渡邊「はい。国内の審判免許とは別に、日本で国際大会を開くときに必要なナショナル・テクニカル・オフィシャル(NTO)としての知識を身につけた上で、都内での研修会に参加したりして、あとは年に何回かの日本選手権やパラ陸上の大会といった機会で審判を務めてきました」
―当初の2020年から延期になり、大学の仕事との両立は大変だったのでは?
渡邊「そうですね。ただ、大学の仕事に関しては同じ(教育学部の)保健体育の先生方にご理解いただいて、オリンピック、パラリンピックそれぞれで約2週間という長い期間の出張でもストレスなく対応させていただけました。先生方には本当に感謝しています」
―研修の積み重ねが、本番での緊張感をだいぶ和らげたのでは?
渡邊「競技の審判そのものについては、いつもやっていることとそこまで変わらないのですが、本番直前の研修に入ってからは、五輪特有の状況に対応していくのにかなり戸惑いましたね」
―どういうことですか?
渡邊「開始3日前から競技場で直前研修をするのですが、OMEGAのタイマーとか、モンド社の備品だとか、そういうスポンサーの用品が入ってきて、それがいつもとは使い勝手が違うわけです。それから今回は無観客ということで、競技をいかに良く映像に残せるかということに力が入っていたので、現場でディレクターから細かい指示が入るんですね。なるべく選手に焦点を当てたいから、審判はなるべく座っていてほしい、とか、固定カメラと重なるからという理由でやりにくい場所に立つように指示されたりとか。そういうことは結構ありました」
―なるほど。初めて生で、間近で見るオリンピック。いかがでしたか?
渡邊「とにかくスケールがでかい。私が担当した投げる競技では、2メートルぐらいの身長の選手ばかりで、体格からして日本人と遥かに違うな、という印象でした。もちろん身体だけではなくて、スピードとか筋力とか、すべてスケールが大きい。一方で、そうしたスケールの大きな海外選手に関しては、日本の選手よりも技術的には上手ではないな、と感じる場面も結構ありました」
―ある意味、日本の選手は身体的なビハインドを技術で補っている、という面はありそうですね。印象的なエピソードなどありますか?
渡邊「男子のやり投げで、世界ランキング1位のドイツの選手が、ベスト8に残れなかったんですね。どうしたのかなと思ったら、タータン(ゴムのような床素材)の助走路に20cmほどの切り裂かれた跡がありました。おそらく、助走をして投げる際に左足を踏み出したとき、タータンの地面をスパイクのピンで切り裂いたことでスリップしてしまって、それでうまくいかなかったというんですね。国内でそんな事例見たことありません。いやあ、パワーが違うなあ、と驚きましたね」
―現場の空気は?かなり緊迫していたのでは?
渡邊「それは、もう。特にベスト8、ベスト3と絞られてくると競技場の空気がどんどん張りつめてきます。無観客とはいえ、観客席に各国のコーチなどがいますから、わーっと歓声も上がります」
―まさにテレビでは味わえない空気ですね。審判する先生ご自身のプレッシャーは?
渡邊「男子の円盤投げの決勝で、円盤の落下の判定をやったんですね。円盤は芝に落ちても痕跡がわかりにくいのですが、それを見極めてマークをつけます。数センチずれても結果が変わってしまいますから、これは厄介な仕事だなあと(笑)。もちろんひとりで務めるのではなくて、数人で一緒にやるわけです。実は新国立競技場のライトが眩しすぎて、一度、ライトと重なって円盤を見失ってしまったんです。たぶんあそこじゃないか、とは思っていたところに、もうひとりの外国人の審判の方がそこだと教えてくれて助かりました」
―他にはどんなお仕事を?
渡邊「競技者係というのがあって、招集所で選手に説明をしたり、フィールドへ連れてきて競技場で問題があったときに対処するような、なんでも屋みたいなこともやるんですよ。実はそれも審判の仕事でして、たとえば観客席から選手に物が渡された、という場面があったときに、それはOKなのかどうか、といった判断をするんですね(実際、そのことはルール違反ではありません)。それから、ドリンクのメーカーロゴ。スポンサー以外の商品で、商標が大きく見えるものについては、私が持っているテープで覆ってしまって隠したりとか、そういう対応もしました」
―そこまで!スポンサーに配慮する部分はかなり大きそうですね。そうしたことを英語で注意する、というのは、高いコミュニケーション力が問われそうです。
渡邊「最初は緊張して言葉が出てこなかったりもしましたが、だんだん慣れてきましたね。ありがたかったのは、選手のみなさんがとても紳士的に対応してくれたことです。注意するとすぐに直してくれますし。揉めるようなことはなかったです」
―その意味ではアスリートのパーソナリティに触れる場面も多かったのではないでしょうか。
渡邊「はい。特にメダルに関わってきそうな注目選手ほど、簡単な日本語も覚えていて、『こんにちは』『ありがとう』と言ってくれたり、私の英語もきちんと理解してくれようとする。そういう選手に触れると、『がんばってほしいな』と思っちゃいますよね」
―パラリンピックはいかがでしたか?
渡邊「パラリンピックでは基本的に競技者係の仕事でしたが、こちらの方がより働き甲斐があったと感じました。障害のある人がこれだけの規模で参加する大会に関わるのは私は初めてでした。さまざまな障害を抱える選手が、使える能力をうまく使って競技をする方法が興味深くて――同じ競技であってもやり方が違ったり。パラ競技のおもしろさは、現場でこそ強く感じられると思いますね」
―現場の雰囲気は感じてみたいですよね。先生は他の陸上競技も観戦することができたのですか?
渡邊「実は競技役員がスタンドで見ることは禁止されているんです......やっぱり見たかったですね。審判をしながら他の競技もちらっと見られるだけで。やっぱり現場の雰囲気、スピード感みたいなものは映像では伝わらないので、今回コロナで日本での大会が無観客になってしまったのは本当に残念でした。また国内で世界選手権の機会とかがあれば、特にスポーツをやっている人、興味を持っている人には生で見てほしいです」
―紆余曲折があり、開催をめぐって世論も分かれた今回の五輪。現場での経験を踏まえてどのように総括されますか?
渡邊「難しいですね。誰のための五輪か、ということが言われますし、開催して良かったかと聞かれると言葉につまるところはありますが、来てくれた選手は喜んでくれたと感じています。組織委員会の手が回りきっていないと感じる場面もありましたが、この厳しい状況の中で最善の策を練って、やれることはやったと思います」
―これまで東京五輪を大きな目標として、スポーツ振興のための国や自治体の予算が多く投入されてきました。それが一旦区切りを迎え、これからの日本のスポーツ振興の課題をどう考えますか?
渡邊「やはり財源の問題は大きいと思います。これからスポーツ関連の予算が一気に絞られていくこと、少子化といった事情や、スポーツにお金をかけることの社会の理解といった問題を考えると、有能な選手の取り合いになる構造が激しさを増すかも知れません。その点では、適材適所をもっとうまく発揮できるようにして、ジュニア選手の育成とか有力選手の発掘といったものに、今まで以上に力を注いでいかなければなりません。これまで無駄な投資をしていた側面も多いのではないかと思っています」
―スポーツ振興、選手育成のための効率的、効果的な投資のあり方、あるいはトレーニングの方法などを考える上で、今回の五輪において、他の国の選手団などから学んだことなどはありますか?
渡邊「実際のところ、外国の選手は、日本よりもいい加減というか、そういう感じを受けました。ウォーミングアップを見ていたのですが、ジョギングや体操を見ていると、特にアメリカなどはそう思いましたが、日本で中学生がやるようなベーシックなことをやって終わりなんですよね。リレーの選手も、トラックを走りながら、バトンをポーンと投げてちょっと遊んでいたり。その点では、日本はシステマティックに、きちんと練習をしているという感じです」
―単に文化の差、ということでしょうか。アスリートのライフスタイルの違いにも通ずるような話ですね。
渡邊「海外の選手のトレーニングとか技への向き合い方が、私たちが思っている以上にシンプルなんですよね。そしてシンプルでもしっかりと力が伝わるような――タイミングが合っているとか――ひとつひとつがちゃんと的を射ているんだな、と感じたんです。日本でもいろいろ工夫はされていますが、たくさんのバリエーションのメニューを体系的にこなすのが良いのか、それとも、エッセンスを絞って突き詰めてやるのが良いのか。一方で、さきほども話したように、外国の選手は技術的にうまくないと感じたところもあっただけに、日本のようにシステマティックに練習していたら、さらに記録が伸びる可能性もあります。国によって考え方も違うと思うので、そこはもっと知りたいです」
―後学期も始まりました。今回の経験から、学生たちにはどんなことを伝えたいですか?
渡邊「ひとつは、SDGsやジェンダーについて考えさせる機会が多かったということですね。たとえばスポーツと環境問題は密接に関わっています。今回マラソンが札幌に移ったというのは暑さのせいですし、感染対策でたくさん衛生用品を使うわけですが、そのゴミはどうするんだろうとか」
―それはスポーツ大会の運営において重要、という話ですか?
渡邊「スポーツ全体、その存在自体に関わることです。気候変動や水質汚染といった環境の問題やジェンダーのような社会の問題とスポーツは、密接につながっているということ。単に競技の振興だけを考えているだけは持続していけません」
―なるほど。確かにそうです。
渡邊「それから、やはり学生たちには海外に行ってほしいな、と。私もこれまで国際学会への参加はあったものの、今回のような長い期間にわたって外国人と一緒に仕事をすることはありませんでしたが、やってみて、意外とできるものだな、と。それによってコミュニケーションの障壁がかなり下がりました。教員になる学生にもそういう体験をしてほしい、ということはぜひ伝えたいです」
―スポーツをがんばっている学生にはどんな声を?
渡邊「とにかく身体を鍛えなさい、と(笑)それから、トップアスリートは振る舞いが紳士的だったので、スポーツをがんばっている学生たちには、ぜひ周りから愛される存在になってほしいな、と思います」
企画・構成:茨城大学広報室