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【教員インタビュー】教育学部・宮﨑尚子准教授
―川端康成文学の源泉を追い求めて

 川端康成の中学時代の作文の成績は53点。「ノーベル賞作家になる」という志との開きは何だろうか......。独特の美の表現の源を追い求めた先には、川端の恩師の姿が見えてきた。近代文学を探究しながら、その神髄で学生の心を揺さぶる根っからの文学好きである。

 九州の大分市に生まれて、母の郷里である日田郡天瀬町で育ちました。父は無医村の医師として誰にでも誠実で優しい人でした。私たち6人兄弟は野山を駆け回って思う存分遊びました。かつて教師に憧れていた父は遊びを通して面白いことを沢山教えてくれました。母は古今東西の神話や文学作品の話をよくしてくれました。

 そんな父が50歳になる前に、くも膜下出血で他界しました。お通夜には2000人を超える人が駆け付けてくれました。中学校の体育館で葬儀が行われ、新聞には「赤ひげ先生逝く」と掲載されました。母は同じ町内の実家に戻る選択肢もありましたが、夫と息子を立て続けに亡くした祖母を心配して皆で父の実家である熊本に引き上げました。後日、有志の方々が父の追悼集を作ってくれました。家族はその追悼集を宝物のように読み、その言葉に慰められました。

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 その頃始めた俳句の先生方が近代文学の研究者だったので近代文学を専攻しました。研究を続けたいと大学院の修士課程、博士課程へと進み、それぞれの場所で恩師に恵まれました。川端には中学生の頃に雑誌掲載された幻の作文がありました。50歳で急死した恩師の棺を生徒達が運ぶ葬列の様子を描いたものです。私はその全集未収録の「生徒の肩に柩をのせて」を古本屋で発見しました。川端の恩師倉崎仁一郎は松江出身の英語教師でした。追悼集で19歳を筆頭に4人の遺児がいたことを知りました。父が亡くなった時と似ていたので、倉崎家が引き上げた郷里松江での調査を開始しました。色んなご縁があって、倉崎家の親戚に辿り着き戸籍謄本や写真をいただき、倉崎家と小泉八雲の関係も分かってきました。川端の得意科目が英語なのは倉崎に目を掛けられていたからです。立て続けに母、父、祖母、姉、祖父と死別した川端にとって、寄宿舎舎監であった倉崎は文字通り親のような存在でした。それまで川端の文章は形ばかりで中身がないと思われていたようですが、感動的な生徒葬を書いた日記は違いました。国語教師の満井成吉に見出され、「団欒」の石丸梧平へ送られました。当時の著名人が名を連ねていた雑誌に無名の中学生の作文が掲載されたのです。川端が心の琴線に触れる美の視点を獲得した瞬間でした。川端は中学時代にインドの詩人タゴールがアジア人初のノーベル文学賞を受賞したのを知り、ノーベル賞作家を志します。その後、川端は文学が宗教に代わる時代が到来すると信じて文学界で活躍していきます。

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 私はいつも学生に「文学とは心の琴線に触れるもの」と話しています。他人事が、自分のことのように思える瞬間があります。そんな心を揺さぶられる感動が芸術で、時にはそれが生きていく心の支えになります。素晴らしさ故に長く語り継がれてきた言葉の芸術が文学だと思います。そんな文学のエッセンスを学生たちに少しでも伝えていけたらいいなと思っています。

プロフィール

  • 熊本県出身。教育学部学校教育教員養成課程教科教育コース国語教育教室准教授。 2002年九州大学大学院比較社会文化研究科日本社会文化専攻(文化構造)博士後期課程単位取得満期退学。高等学校教諭、尚絅大学文化言語学科講師を経て、2017年より現職。日本近現代文学、特に川端康成に関する研究を専門とする。

(取材・構成:茨城大学広報誌『iUP』編集チーム)

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