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原発事故の実効性ある避難計画の策定は可能なのか―福島の経験が投げかける課題

 2011年の東日本大震災による福島第一原子力発電所の事故を受け、原発の周辺自治体には、事故時の広域避難計画をつくることが求められています。大人数の輸送や道路の寸断のリスク、避難所の混乱、被ばくの検査方法といったさまざまな課題を踏まえた上で実効性のある計画を策定するためには、福島での実際の初期対応の経緯を検証することが不可欠です。

 防災の日である91日に水戸キャンパスで開催されたシンポジウム「『初期被ばく』対応の現実と広域避難計画への課題~いま、あらためて振り返る原発事故避難」では、実際に福島からの全町避難を経験した方や、当日の経過を丹念に取材している記者などから、当時の状況が語られました。その内容は、原発を抱える茨城県の住民にとっても重い課題を投げかけるものでした。

 茨城県東海村には東海第二原子力発電があり、現在も再稼動をめぐる議論が続いていますが、その東海第二原発の直径30km圏内に位置する県内14市町村と茨城県でも、広域避難計画の作成が進められています。しかし、大人数を移送するバスの手配や初期被ばくの検査体制などの面で課題は多く、いずれの自治体も有効な避難計画の作成に苦慮しており、完成の見通しは立っていません。

 そうした中、福島第二原発事故における初期の避難の状況を振り返りながら、広域避難計画のあり方を考えるという今回のシンポジウム。最初に登壇したのは、福島県浪江町で被災し、現在は兵庫県で避難生活を送っている菅野みずえさんです。

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 まず菅野さんが振り返ったのは、地震や津波被害の混乱の中で、そもそも原発の事故だという正確な情報自体が当初はほとんど入ってこなかったという事実です。そうした中、当初は屋内避難が呼びかけられていました。「外の空気を入れないよう、エアコンをつけないようにと呼びかける車が街中を駆け回っていました。でも福島の3月は寒いんです。一番寒いときで零下19度という日もありました」。その間、各自治体では大人数の町民たちが避難できる場所を探していたようですが、あちこち道路が寸断されたり倒壊した家屋がせりだしたりしており、「避難路が避難路足り得ない状況」だったといいます。そして314日には福島第一原発の3号機が水素爆発を起こし、その翌朝、浪江町はようやく全町避難を町民に告げました。菅野さんは息子さんと飼い犬を連れて郡山の体育館へと移動しました。

 体育館では、被ばくの状況を測るスクリーニング検査を待つ長い行列ができていました。菅野さんは3時間待って検査を受けたといいます。検査機を上着と手の平に当てたところ、針がすぐに振り切れたとのこと。その後、上着を脱いで再び検査をすると、今度は「8」の目盛りで止まったものの、その数値は特に記録された様子もなく、氏名を聞かれることさえないまま、検査が終わりました。この「8」という数値は、8cpm1分間あたり8万本の放射線を示していますが、当時はそういう説明は受けなかったということです。「最初に針が振り切れたのは、10cpmを超える値だったということです。福島県の集計では、15日に10万cpm以上の汚染があった人は『5人』と発表していますが、とても信じられません」と語ります。

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 当時避難区域となった各地域では、急速に避難指示の解除が進められています。一方でスクリーンには、「かつてここが一面に広がる田んぼだったなんて信じられますか」という言葉にあわせ、菅野さんの自宅周辺の風景として、セイタカアワダチソウが生い茂る荒れ地の姿が映し出されました。「そこに人がいない地域は、文化を失います。私には、漬物の作り方などを教えてくれるたくさんの『師匠』がいましたが、その方たちとの暮らしをぷっつりと切られたのです」と語る菅野さん。そのような事態を引き起こした原発事故とその後の対応の現実について、「黙っていたら自分も加害者になってしまう」という切実な想いを吐露し、自分と同じ経験を誰にもさせない、ということを「私の生きる上で一番大事なこと」と語りました。

 さて、郡山の体育館でのスクリーニング検査において、10万cpmという値が検出されながら、名前も聞かれず、文書として記録されていなかった――という菅野さんが経験した検査の対応は、福島県の当時のマニュアルに書かれた測定手順とは異なるものでした。こうした経緯を、情報公開請求やヒアリングを通じて取材をし、紙面化したのが、東京新聞特報部記者の榊原崇仁さんです。

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 榊原さんによると、2004年に作られた「福島県緊急被ばく医療活動マニュアル」では、まさに避難所での検査対応などについて記されていました。そこでは「問題は放射性ヨウ素の吸入による甲状腺内部被ばく」と記されていました。放射性ヨウ素は半減期が8日と短く、事故直後に測る必要があります。具体的な手順としては、体表面汚染測定で汚染密度が40ベクレル/c㎡以上だった場合、除染と甲状腺被ばく測定という次の段階に進むというものです。事故前の国の会合では、40ベクレル/c㎡は13,000cpm相当と説明されており、10万cpmと測定されながら甲状腺被ばく測定をされなかったという菅野さんへの経験が、マニュアルとは大きく異なっていたものだったがわかります。また、これらの検査結果は、被災地住民登録票に記載することで、将来の医療措置や損害補償の際の参考とすることが想定されていましたが、そうした対応もありませんでした。

 では、事故当時、どのような経緯で手順が変更されることになったのか。榊原さんの取材によれば、313日に福島県で協議がなされ、体表面汚染測定のあとは除染のみとすること、13,00010cpmなら拭き取り除染で済ませ、10cpmを超えた場合に問題視することが確認された一方、一人一人の記録を残す意識が十分に徹底されませんでした。背景には、対象者があまりにも多いために対応ができない、ということがありましたが、これにより、当初マニュアルが目的とした医療支援や損害補償の材料にするという機能も失われました。さらに、この手順変更を正当化するための文書が作成されていた、と榊原さんは指摘しました。

 こうした経過を踏まえ、榊原さんは「どんなに精巧な避難計画があり、どんなにうまく避難しても、放射性ヨウ素の摂取を避けられたかは、測定しないとわからないのです。早く逃げることは大事ですが、早い段階で測ってみないと、その後の甲状腺がんなどとの因果関係がわからなくなります」と語り、それにもかかわらず、現状各地で進められている避難計画では、次に事故が起きたときも同様に測定が十分に行われない公算が大きいと述べました。

 その後は、国際環境NGO FoE Japanの満田夏花さんが、安定ヨウ素剤については、現在事前配布が定められている原発5km圏内の地域(PAZ)だけでなく、「備蓄」とされている30km圏内(UPZ)でも事前配布すべきであると提言しました。また、原子力規制を監視する市民の会の阪上武さんは、避難計画に書かれた避難所を実際に訪れて課題をフィードバックする活動などを紹介した上で、東海第二原発の事故を想定した広域避難計画の策定にあたって、自治体では再稼動問題と切り離して議論を進めがちである点を問題視しました。

 4人の講演を受け、人文社会科学部の原口弥生教授は、「避難計画の策定にあたっては、妊婦や子どもの被ばく防護を優先し、どう被ばくを減らすか、という点で議論をすべき」などと提言しました。その上で、「実効性のある避難計画の策定に向けては、自治体の方々も頭を悩ませている。説明会でただ『無理』と述べても、それだけでは自治体は対応しようがない。住民目線で計画の内容を試行しながら、少しでも根拠のある困難さを、早め早めに指摘していくことが必要だと考えます」と呼びかけました。

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 原発事故に対する受け止めや不安の感じ方は人によって異なり、事故時に各個人がとる行動も実際にはきわめて多様です。そうした中で実効性ある、完璧な避難計画を作るということは、そもそも不可能とも考えられます。しかし、だからこそ、私たちひとりひとりが避難計画のリスクを理解し、過去の経験にも学びながら、いざというときに外部被ばく・内部被ばくの被害を減らす行動を想定できるかが重要になるといえるでしょう。

茨城大学は、地域に根ざした大学として、今後も市民・行政の枠を超えてこうした議論を展開できる場をつくっていきます。

(取材・構成:茨城大学広報室)