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人文社会科学部・考古学研究室が手がける
城里町・徳化原古墳の発掘調査で4つの発見!

 城里町にある茨城県埋蔵文化センター「いせきぴあ茨城」は、廃校になった旧北方小学校の校舎を利用した施設だ。土器などが展示されたガラスケースを眺めながら廊下を突っ切って校舎の裏側へ出ると、目の前に古墳の石室が現れる。そう、そこは「徳化原(とっけはら)古墳」と呼ばれる7世紀後半の古墳跡なのだ。現在、茨城大学人文社会科学部の田中裕教授率いる考古学研究室のチームが、城里町との連携のもと、その調査を進めている。

■どんな調査?

 5月31日、徳化原古墳の発掘調査の成果報告会が開かれた。

 今回は約35年ぶりとなる本格的な調査で、茨城大学考古学研究室が携わるのは初めてのこと。2016年度の茨城県埋蔵文化センターのオープンにともない、城里町指定史跡であるこの古墳について、保存を図りながらセンターとの一体的な活用が可能となる将来的な整備を見据え、2018年度より発掘調査がスタートした。

 第一次調査は、今年3月中旬~下旬と4月下旬~5月中旬の2回にわたって実施。学生たちは今年の10連休も発掘作業で汗を流した。発掘には、茨城大学の学生だけでなく、筑波大学など他の大学の学生たちも協力した。

 今回は、四角い古墳の中心点から、南、東、西の各方向に延びる直線状に細長い穴(トレンチ)を掘った。さて、今回の調査による新たな発見とは?

ibdaikh20190531_0026.JPGのサムネイル画像報告会の準備をする田中教授と学生たち

■発見1:徳化原古墳は従来説より大きかった!この時代としては最大級

 35年前に行われた調査では、35mの大きさの前方後円墳もしくは方墳(四角い古墳)という可能性が指摘されていたが、今回の調査により、それが長方形の長方墳ということが判明した。また、大きさについても、東西の長さが約37mと、従来の説より2mほど大きいことがわかったという。南北の長さは正確に計測できないものの、約23m以上と見られる。

 7世紀後半といえば、645年の乙巳の変(大化の改新)の後。この時代、「薄葬令」というものが中央から出され、古墳は小さくつくられるようになった。その中で、37mというのは那珂川流域の当時の古墳としては最大級の大きさだという。それなりの人物の墓だったということだろうか。

■発見2:黒土だけを盛ってつくった珍しい古墳

 このあたりの土には、「黒ボク土」といわれる黒土と、関東ロームの赤土とがある。穴を掘って盛り集めた土は黒土と赤土が混ざったものになり、通常、古墳を作る場合はその混ざった状態の土を盛っていく。そのほうが丈夫にもなるのだ。ところが今回発掘を進めていくと、古墳の盛り土はほぼ黒土だけだったことがわかった。わざわざ黒ボク土だけをかき集めたのだろうか――その理由は判然としない。文字通りホクホクしているのが黒ボク土の特徴なので、今回は通常より、盛り土を掘りすぎないようにするのが難しかったようだ。

ibdaikh20190531_0065.JPG盛り上がった部分だけが黒土になっているのがわかる

■発見3:日本で初めての発見?!整列した柱穴群

 そしてとりわけ大きな発見といえるのが、整列した柱穴群だ。中央から各方角に延びる線状のトレンチのそれぞれに、直径10~15cm程度の柱の穴が見つかった。しかも複数の柱穴がきちんと整列されている。

 田中教授によれば、これらの穴は古墳の施工や構造にかかわるものと考えられるようだが、複数の柱穴が整列して見いる状態で見つかるのは「国内でも初めての例」とのことだ。

 これはいったい、何のための柱穴だったのだろう。田中教授は2つの可能性を考えている。1つは、斜面上に古墳を建造する上での割付基準線(丁張り)だという説。もうひとつは、中央に向かって傾斜をつけるための土留め板を取り付ける柱だったという説だ。柱と柱の間の距離が短いことから、それが土留め板の間隔を示すのだとすれば、多段のピラミッドのような、特徴的な形状だった可能性もある。これは大きな発見だ。

 今年6月には、長方墳の南側の辺の両端にあたる角を掘る予定とのこと。そこで同じように柱穴の列が出てきたら、それらは土留め板の柱だった可能性がさらに高まる。

ibdaikh20190531_0073.JPGこのような柱穴が列をなしている

ibdaikh20190531_0042.JPG土留め板の柱だとしたらこういう形の古墳だったかも知れない

■発見4:古墳跡を掘ったら中世の歴史も見えてきた

 4つめの発見は直接古墳時代にかかわるものではなく、そのずっとあと、16世紀の戦国時代に関するものだ。今回の発掘作業では、中世時代の墓地が見つかり、あわせて素焼きの器や昔の硬貨などが大量に出土した。これらの発掘品は、この古墳跡の土地がその後どのように利用されていたかを知るヒントになる。

 特に素焼きの器の中には、神棚などによく置かれている「かわらけ」という小さな盃がたくさん見られた。かつてこの土地が合戦の舞台となり、古墳のある場所を中心に本陣が置かれ、出陣の際に「かわらけ割り」が行われたのかも知れない。実はこの地域をめぐっては、江戸時代に書かれた「頓化原合戦記」というものが残っている。果たして本当に合戦場となっていたのかについては定説がなかったが、今回のかわらけの発見は、その議論に一石を投じるものになるかも知れない。

ibdaikh20190531_0094.JPG出土品の一部

■果たして誰のお墓なのか?

 そして一番気になるのが、この古墳が誰のお墓なのか...ということだが、残念ながらまだわからない。

 実はこの古墳がつくられた頃というのは、律令制度の整備の中で、「郷(ごう)」、「評(こおり)」といった行政区画の区分が激しく再編された時代だ。周囲に大きな古墳跡がないことを考えると、そうした権力再編の中で表に出てきた一族の墓だという可能性もある、と中教授は推測する。

 いずれにせよ、そうしたことや、あるいは古墳の施工の知見なども、調査を続けないと解明できない謎がまだまだある。次の調査は9月の予定。町では今後も一般向けの報告会などを開催したいとのことなので、気になる方はぜひ継続的に情報をチェックしてほしいし、茨城大学ホームページでも引き続きレポートしていきたい。

(取材・構成:茨城大学広報室)