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大学の主体性とは何か―苅谷剛彦氏が「イバダイ学」で語ったこと

2018年12月22日に行われた「みんなの"イバダイ学"シンポジウム」は、大学の未来、茨大のミッションについて多様な参加者と議論を交わす場になった。基調講演ではオックスフォード大学教授で社会学者の苅谷剛彦氏を招へい。苅谷氏は、政府などによって示された抽象的なキーワードになびいてしまう「エセ演繹型思考」を批判し、世界の知識、ナレッジ(Knowledge)の生産・継承・再生産に参加しているという自覚を大学がもつべきだと語った。それは私たちの主体性とは何か、ということを鋭く問うメッセージだった。

 久しぶりに日本の大学の教壇に立つと、とても効率がいい講義であることに気がつきます。声は教室の奥まで届く、黒板に書けば学生がみなノートに写し一斉に知識を蓄えてくれる。最後はそれを覚えたかどうか、試験で評価する。日本人に根付いた思考の型は、まさにここにあります。

知識は「外」にあるという神話

 日本の大学のルーツは、今から150年前、富国強兵と殖産興業をもとにした新しい近代国家づくりに原点があります。当時の日本では、内生的な知識で欧米の列強国に対抗できませんでした。日本は知識を外の世界へ求め、優秀な人材を海外に派遣しまた海外の教員たちを日本に招いて、新しい知識や技術を外国の言葉で学ばせることを始めたわけです。その受け皿となったのが帝国大学です。

 当時のトップレベルの研究や教育は、西洋語で行われていました。他の非西洋諸国は多くが植民地化されましたから、そこでエリートになるためには西洋諸国の言語を学んでいきました。ところが日本では、帝国大学が設立されて20年ほどすると、その卒業生たちは教員として現在の私立大学にあたる専門学校などで、日本語で講義をするようになりました。講義録も日本語で出版され、知識の日本語化が急速に進んだのです。

 大学教育が日本語化された一方で、" 知識は外在する"という意識は変わらず、「学ぶ」=「知識を受容する」という認識が定着していきました。

 帝国大学を頂点とした知識の流れと教育の階層化はこうして生まれ、なかでも重要視されたのが法律の知識でした。近代日本は法治国家を作ろうとしたわけですから、法学的な思考が近代国家建設の基盤になったわけです。

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エセ演繹型思考に陥るな

 日本における法学的思考は、外国の制度で良いものがあったら、その理念をもとにどう法律にできるかを考える、「演繹」的な思考様式が強かったと私は考えています。抽象的な命題から、抽象度を下げて考えるという思考。つまり、外国の法典や憲法という上位法があって、それを元に次の法律を考えるという方法です。

 これに対して、物事の考察には、現実から考えて理念を具体化していく「帰納」的な思考もあります。自然科学や社会科学は本来こうした「帰納型」の学問ですが、日本の社会科学も、海外の学者の理論や概念を日本に紹介することに長く研究の重きを置いてきましたから、「演繹型の社会科学」と言わざるを得ません。

 本来なら、この演繹と帰納がうまく両立しながら物事を考えていくことが極めて合理的で論理的な考え方なのですが、日本は近代化のもとで、 演繹型思考が勝っていくことになります。

 抽象的なキーワード、それも流行り言葉を若干具体化して言い換えただけで、わかったつもりになってしまう......私はそういう思考を「エセ演繹型思考」と呼んでいます。現実の経験からの帰納が不十分なまま抽象的な命題を理解したつもりになってしまう。つまり、「大学の課題は何だろうか」と考える時、大学の経験や現状に基づいて課題を挙げるというよりむしろ、外から来たもっともらしい言葉になびいてしまう傾向に、今の日本の大学の大きな課題があるような気がします。それは文部科学省に従順であるべきか否かという話ではなく、思考様式がエセ演繹型ゆえに、新しいキーワードを与えられると、安易に「うん、そうだ、そうだ。新しく、これをやんなきゃね」と飛びつく傾向。まさに昨今流行語になった「忖度」そのものです。

 忖度というのは、主体的な営みです。波風立てずに巧みに相手に取り入るために必要なスキル。皮肉なことに、変化の激しい現代社会で生きる上で、忖度は極めて主体性のある行為と言えるでしょう。加えて、手段が欠如していますから、やり方がよくわからないので解説本を見ようとする。すると、中途半端な説明、実践例しか書いていない。生半可な理解しかしていませんから、具体的な処方箋は書けません。思考様式そのものを理解せず、わかったつもりでいるものの、その手段がルーズなので、目的を達成できる保証がないまま、結局、形式的なことだけを見せて達成できたつもりになってしまうという、最悪の事態が起きるわけです。

 これは 「アクティブ・ラーニング」や「主体的な学び」といったワードも同様です。たとえば「主体」とは何か、という具体的な議論はないわけです。これでは、学生たちが大学を卒業後、社会で発揮するのは「忖度する主体性」になってしまいます。帰国するたびに、そういう人材が増えている気がしてなりません。

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70年の歴史から大学のミッションが見えてくる

 大学で学ぶということは自分たちが世界の知識、ナレッジ(Knowledge)の生産や再生産に参加しているということを自覚すること、共有することです。

 世界の礎と繋がっているという地続き的な感覚。大学は、トランスナショナルな機関ですから、国家を超える知を作り出せる力を持っていることを誇りにしてほしいです。

 日本の強みは、日本語という非常に難しい言語で、近代だけでも150年の経験をさまざまな分野で書き残してきたところにあります。そこには日本だけの経験、西洋語や他の言語を話す人たちにはない経験が培われています。これを活かさない手はありません。人類のナレッジの一角に日本の知識は参加していけるわけですから。

 茨城大学をはじめ、多くの大学が創立70年を迎えます。その多くが大学教育の方向性を自問するなかで、私は、「目的のために何をするか」だけではなくて、「我々は、今までにこんなことをやってきた、成し遂げてきた」というみずからの歴史と実績を振り返り、その事実の認定を評価の対象としで帰納的に理念化していけば、おのずと大学のミッションは見えてくると信じています。

 大学がこれまでどのようにして社会の変化に対応してきたのか、または出来なかったのかを、歴史を踏まえながらきちんと検証することで、時代の波に右往左往せず、みずからのミッションと「社会の変化に適応できる主体性」を発揮できる学生を育成できるのはないでしょうか。

●苅谷 剛彦(かりや・たけひこ)

1955年生。オックスフォード大学社会学科・ニッサン現代日本研究所教授。Ph.D.(社会学)。東京大学大学院教育学研究科教授を経て2008年から現職。著書に『オックスフォードからの警鐘―グローバル化時代の大学論』(中央新書ラクレ)など。

※本内容は2018年12月22日に開催された「みんなの"イバダイ学"シンポジウム」の基調講演「大学で学ぶということ―エセ(忖度する)『主体性』に絡みとられないために」の内容を抜粋・要約したものです。