今村紫紅(1880〜1926)は、本名寿三郎、横浜の輸出提灯屋に生れた。明治34年(1901)安田靫彦(1884〜1978)らと若手日本画家の研究会「紅児会」を結成し活躍していた。明治40年の春から夏にかけて五浦の日本美術院で研究活動に参加した折り、天心の古来どの画家が好きかという問に、紫紅は言下に「宗達です」と答えたという。「琳派」という言葉さえまだない時代のことだったが、天心の周囲では、宗達・光琳の作風の現代化が行われていたことを考えると、時を得た五浦参加だったといえる。紫紅は特に春草が朦朧体から脱した《賢首菩薩》の制作に立ち会ってその技法に感嘆し、大正時代の日本画革新の旗手として日本美術院再興に参加することになる。常々「僕が壊すから君たちが建設してくれ」と仲間に話していたという。
本作は清姫が安珍への思いを胸に、まなじりを決して石段の前にたたずむ姿を描いている。白い直垂にわずかに透けて見える長い髪が、蛇に変身する姿を暗示して、むせるような春の空気と静かな緊迫感をたたえている。石段を大きく配した不安定な構図は大観の《流燈》との関連をみるべきかもしれない。紫紅は男性的で若くしてリーダーの風格を備えていたといわれ、大観、春草の次世代を担う大画家としての活躍を期待されたが、わずか35歳で惜しまれて世を去った。 |