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陸上3000m障害で日本一・石澤ゆかりさん(2011年教育学部卒)―アジア競技大会出場も内定、目指すは東京五輪

インタビュー

 6月29日。関東地方では観測史上もっとも早い梅雨明けが発表されたこの日、日本陸上選手権大会の女子3000m障害をもっとも速いタイムで駆け抜けた茨大OGが、水戸キャンパスを訪れていた。彼女は、石澤ゆかりさん(株式会社エディオン)。2011年3月、東日本大震災のあった年に教育学部情報文化課程(当時)を卒業した。30歳でもぎとった初の全国優勝。その成果により、8月に行われるアジア競技大会に日本代表として出場することが内定した。そしてその目は、2年後のTOKYOへと向けられている。茨大陸上競技部の恩師・渡邊將司准教授とともに話を聞いた。

ishizawa1.jpg  石澤さんは現在、株式会社エディオンの女子陸上競技部に所属。日々トレーニングを重ねながら、長距離選手として駅伝などの大会に出場。今年6月22~24日に山口県で行われた第102回日本陸上選手権大会では3000m障害で出場し、見事優勝を果たした。自身にとって初の全国制覇だった。

陸上を始めたのはいつから?

石澤「陸上は高校から始めました。鉾田一高です。実は高校のときにも実業団に声をかけてもらったんですけど、そのときは大学に進学したいという気持ちがあったのでお断りしました。絵を描くのが好きだったので、大学ではデザインのゼミ(教育学部・島田裕之ゼミ)で勉強しながら、陸上を続けました」

 大学時代は、3年生のときに関東インカレの800mで5位。4年生次には全日本インカレで準決勝まで残った。当時の石澤さんについて渡邊准教授は、「確かに速いほうでしたが、なかなか全国の舞台で十分な結果は残せませんでした。大学のグラウンドの限界もあるし、授業も結構忙しかった。だから実業団から声がかかったと聞いたときは、そういう道があるならもっと力を伸ばせるだろうとは思いました」と振り返る。「でもまさか、ここまでいくとは」。

ishizawa2.jpgキャンパス内でゼミの指導教員だった島田教授に遭遇 右は渡邊准教授

石澤「最初は、競技は大学で終わらせるつもりで、普通に就職活動をして50社ぐらい受けたんですけど、全部落ちて...。そういうときに実業団から話をもらい、少しでも希望があるのならと思って入りました。全国インカレの強豪校の中に国立大学の選手がいたことで目立ったのかも知れません。

 でも実際に入ってみると、周りはインターハイとか女子駅伝とかを経験した人ばかりで。私はインターハイも国体も、もちろん高校駅伝も出たことなかったので、最初は劣等感じゃないですが、なかなか自信がもてずにいました。しかも、毎年毎年強い選手が入ってきて、入れ替えが激しい世界ですから。でもそんな中で、自分はゼロからのスタートでこれから上がっていくだけというのがあったし、大学までは陸上競技は純粋に好きにやってきただけだから、それを職業にできるということ自体が幸せだと思っていたので、チャンスを与えてもらった以上、できる限り結果を残さなければならないと思い、不安をやる気に変えてがんばりましたね」

ishizawa3.jpg三村学長もエールを贈った

 大学時代はもっぱら800m走。そこから長距離選手としてトレーニングを積んできたが、競技人生14年目、30歳を目前に控えた年、アスリートとしての自己を改めて見つめなおすことになる。

石澤「自分は本当にこれでやりきったのか、もうこれで終わりにするのか、この先何を目指すのか、ということを、すごく考えた1年間だったんです。30歳にもなるし、次の人生どうしたらいいのかって。

結局、自分はやりきったとはどうしても思えなくて、じゃあ何を目指すか、といえば、やっぱり東京オリンピックなんですよね。でも出ることが目的ではなくて、当然戦いたい。でも自分は今まで"この種目"というこだわりがないままやってきたんです。それで自分が一番狙える種目はどれかって考えたら、マラソンはイメージできなかったんですが、ふと3000m障害というのが浮かんだんです」

石澤さんの高校時代の陸上部の顧問は、3000m障害の選手だったし、茨大の陸上競技部のもうひとりの顧問である上地勝教授からもハードルの指導を受けていた。彼女の頭に「3000m障害」というイメージが過ぎったのは決して偶然ではない。

石澤「でも最初は怖かったんです。ケガが怖いというのがまずあったし、自分は腰痛をもっていたから、絶対にできないと思い続けてきました。でもその怖いことを乗り越えられたら、もっと強くなれるんじゃないかという気持ちになったんです。あえてそれにチャレンジすれば、自分の競技人生でもう悔いはなくなるというのがあって、挑戦しようと。

 会社のチームスタッフに3000m障害をやりたいと伝えたときも、『マラソンから逃げるためだったらやらせない』『やりたいというだけでやらせてあげられるような甘い世界じゃない』『やるからにはトップレベルの結果を残す覚悟を』と言われました。中途半端な結果じゃ会社も周りも納得しない。やるからには、経験が浅いとかはもう関係なく、トップを目指そうと」

―ケガなどの不安をどう乗り越えた?

石澤「実は今年3月の練習時に、障害に足を引っ掛けて転倒してしまって、脳震とうになって入院したんです。3日間。脳震とうをやってしまうと、もう危険だから続けさせるわけにいかないとも言われました。でもここでは絶対に終われないし、この先の人生かけてこの種目をやりたいという気持ちがあって。この練習やって今度失敗したらもう競技ができなくなるかも知れないと思うことで、ひとつひとつにものすごく集中できるようになりました。ここでケガして終わってももう悔いはないというぐらい、1日1日、100%できることを確実に」

ishizawa4.jpgただひたすら楽しく走った(写真:㈱エディオン)

―そうして迎えた日本陸上選手権大会。どんな気持ちでスタートラインに立ったのか?

石澤「スタートラインに立つまでは、本当に苦しかった。ケガも絶対に許されないし、中途半端な結果に終わってもいけない、というプレッシャーで押しつぶされそうでした。でも、それを乗り越えたらなんだか急に吹っ切れることができて、スタートラインに立ったときは単純にわくわくしたし、緊張もしなかったです。ただひたすら楽しく、3000mを走れました」

―そして優勝。そのときの気持ちは?

石澤「いろんなスタッフやチーム、関わってくださったみなさん、それから心配しながらも障害の練習をやらせてくださった会社の方々も観にきてくださっていたので、そうしたいろんな方たちの協力にやっと恩返しできたという気持ちでした。自分がやったぞ、という感じではなくて、みんなに連れてきてもらったという」

ishizawa5.jpg3000m障害での大会出場3回目にして初のメダルを手にした(写真:㈱エディオン)

 日本陸上選手権での優勝を受け、8月にインドネシアで行われるアジア競技大会出場の切符を手にした。日本代表に内定した形だ。

―意気込みは?

石澤「まだ試合日数は浅いし、初めての世界大会ではあるんですけど、この(日本陸上選手権での)優勝でがらっと世界が変わったと実感しているので、ここで気持ちが浮つかないように、常に挑戦者という気持ちをもって、怖がらず堂々といつもの力が出せるようにしたいです」

 さらに2年後は東京オリンピック。石澤さんは32歳でこの大会を迎えることになる。茨大出身のオリンピック選手が誕生するかも知れない。これからどう臨んでいくか。

石澤「仮に今回のアジア競技大会で失敗しても、これで終わりではなく、次の大会に活かせるようにしたいです。東京オリンピックの開催年に自分が競技者としていられること自体、とても縁のあることだと思っているので、その縁に感謝して。

 オリンピックに出場できれば、インターハイや国体に出ていない選手でもこういう世界まで来られるんだよ、ということを、スポーツをやっている子どもたちに伝えられる。あるいは子どもたちだけでなく、何かを始めるのに年齢の遅い早いはなく、いつでも挑戦すれば何かが変わるということが伝えられたらな、と思います」

改めて、今の石澤さんにとって3000m障害はどんな競技といえるか?

石澤「私の競技人生、世界を全部変えてくれた種目だと思います。この種目に取り組むことで、5000mの自己ベストも春に更新できて、足腰が強くなったと感じていました。ケガもしなくなり、腰も痛くなくなってきたりと、自分にとってプラスになることが増えてきました。この種目に出会えて良かったです」

ishizawa6.jpg「後輩たちには『失敗を恐れず挑戦して』と伝えたいです」

 普段は広島を拠点にしているが、年に1回程度、鹿嶋市の実家に帰省するときは、茨城大にも立ち寄り、自身の練習も兼ねて陸上競技部のメンバーたちと触れ合う。この日も夕方から後輩たちと汗を流した。

石澤「今夜ですか?大興飯店(※水戸キャンパスの近所の中華料理店)に行きます。学生時代、3年間バイトしてたんです。いっぱい賄い料理を食べさせてもらえました。あのときはご飯3合とか食べてて。私の体は、大興飯店でできてるんです(笑)」

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(取材・構成/茨城大学広報室)